村社郷
むらこそごう
新見庄の高梁川対岸、馬塚から高尾・正田・唐松に至る帯状の地域を占めたと思われ、唐松に村社の字名が残る。「吾妻鏡」建保五年(一二一七)五月二〇日条によれば、「村社郷内小埋社町」は右衛門尉紀康綱の八代相伝の地であったが、未だ新恩に浴しないため和歌一首を進めたところ、不輸の地として領掌を認められたという。弘安四年(一二八一)一〇月二日、左兵衛尉季綱は子の弥熊丸に郷内の庄田村東方・柿木原・左久良・馬塚・木尾野別所ならびに田畠山林を譲り、同八年八月三日幕府から承認されている(「関東下知状」慈光寺文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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