松山東村
まつやまひがしむら
[現在地名]高梁市上谷町・和田町・奥万田町・浜町、松山 楢井・玉坂・大久保・河内谷・広瀬
西から南は松山城下および松山西村、西は賀陽郡西村(現上房郡賀陽町)、同郡槁村(現総社市)。松山西村を原西村というのに対し原東村ともいう。江戸時代初期には東西二村が松山村・広瀬村として把握されていたが、その後村切の再編と名称の変更がなされ、元禄八年(一六九五)までに松山東村・松山西村となり、幕末に至る。一方別に原東村・原西村の呼称も正徳(一七一一―一六)頃から用いられた(→松山西村)。元禄八年の旧松山領新高帳(羽場文書)によると古高五九七石余・新高六九四石余。「備中誌」では村の東西二二町・南北一里一一町、枝村ならびに小名に億万田(「古名奥灘」と注記がある)・岸之上・大久保・玉坂・広瀬がある。明治二年(一八六九)高梁東村と改称、同八年高梁西村(もと松山西村)と合併して高梁村となり、同一一年松山村と改称。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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