枝川鶴田堰
えだがわつるたせき
複雑に分岐し、近世には枝川堰・足水堰・枝川足水堰・枝川母堰ともよばれ、これらの区別は不明である。現在はこれらを総称して枝川鶴田堰とよぶ。
開削については不明だが、浅瀬石川を土矢倉村(現南津軽郡田舎館村)で取水したものと考えられる。平山孫右衛門宿帳(板柳町郷土史)によれば、水下の用水不足から大庄屋の板屋野木村(現板柳町)安田次郎兵衛が、五所川原堰水下庄屋に宝暦八年(一七五八)から交渉を始め、同一一年に「若末々に迄差障り之儀少多里共御座候はば、何時成共銘々留切可被成候、右之儀は枝川堰水下百姓作人願」とあり、掛落林(現板柳町)、大性・菖蒲川・鶴泊・鶴田・強巻・大巻・境・胡桃館・中野・山道村(現鶴田町)の庄屋が証文を出して、五所川原堰の下流に当堰根を取付けた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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