北津軽郡
きたつがるぐん
面積:五四二・九〇平方キロ(境界未定)
金木町・中里町・市浦村・小泊村・板柳町・鶴田町
津軽平野中央部から北、東の中山・梵珠両山地の脊梁と西の岩木川とに挟まれた帯状の地域。中央部の岩木川扇状地を含む鶴田・板柳の二町と、岩木川デルタに立地する金木町・中里町、海岸線をもつ市浦村・小泊村の二町二村とは五所川原市によって分断される。前者は東端を流れる十川、西側の岩木川に囲まれた平野部で、西端にわずかに山地がみられる。後者は十三湖(潟)以南の平野部と、中山・梵珠両山地とに分けられ、十三湖以北は大部分が山地である。
現郡名は明治一一年(一八七八)郡区町村編制法により定められ、昭和二九年(一九五四)五所川原町と周辺町村との合併による市制施行により郡域は縮小、二分された。
〔原始・古代〕
郡内の遺跡は平安時代までのものを含めて七〇余ヵ所が確認されているが、うち約五〇ヵ所が縄文時代の遺跡で、中山・梵珠両山地西麓末端の台地または湖岸や自然堤防上の低地に立地する。旧石器時代の遺跡として金木町喜良市の相野山遺跡がある。縄文時代の主要遺跡として、早期―晩期の金木町川倉の芦野七夕野遺跡、深郷田式土器で知られる中里町深郷田の深郷田遺跡、後期の金木町金木の妻の神遺跡、晩期の同町喜良市の千苅遺跡、板柳町板柳の土井遺跡などがあり、貝塚として市浦村相内の笹畑貝塚・同所のオセドウ貝塚がある。金木町藤枝の藤枝遺跡は平安時代のものと考えられている。
「日本書紀」斉明天皇四年夏四月条に「齶田・渟代、二郡蝦夷」を征し、「於有間浜、召聚渡嶋蝦夷等、大饗而帰」とあり、この有間浜について西津軽郡深浦町吾妻浜、青森市善知鳥崎付近のほかに、市浦村十三付近や小泊村付近が比定されている。さらに同五年に「飽田・渟代、二郡蝦夷二百卅一人、其虜卅一人、津軽郡蝦夷一百十二人、其虜四人、胆振
蝦夷廿人」を集めて大饗し、禄を与え、問菟の蝦夷二人の進言で後方羊蹄を政所とし、郡領を置いて帰ったという。この後方羊蹄について、青森県下では深浦町、青森市後潟の摺鉢山のほかに十三付近が比定されている。
〔中世〕
鎌倉時代の津軽地方の実態は不明だが、平賀・田舎・鼻和・山辺の四郡と西浜・中浜・外ヶ浜の名が認められ、天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字によれば、津軽地方は内三郡の平賀・田舎・鼻和郡と、外三郡の奥法・江流末・馬郡、そのほかに外ヶ浜からなっていた。これは直接鎌倉時代の状況を示すものではないが、大略の区分は鎌倉時代もほぼ同様であったと考えれば、現在の北津軽郡は鼻和・奥法郡の北部と馬郡の一部、江流末郡にあたろう。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 