棹ヶ島村(読み)そうがじまむら

日本歴史地名大系 「棹ヶ島村」の解説

棹ヶ島村
そうがじまむら

[現在地名]下館市棹ヶ島

五所長沼ごしよながぬま街道沿いにあり、東は灰塚はいつか村。文明一〇年(一四七八)水谷勝氏が下館に築城後、同氏の支配地となる。江戸初期に下館藩領となり、元和九年(一六二三)の水野谷様御代下館領村々石高并名主名前控(中村家文書)に村高三七三・六〇五石とある。その後天領となり、安永年間(一七七二―八一)には家数四三・人別二〇四(下館市史)

天明飢饉以降の荒廃は下館藩領の村々同様に惨憺たるもので、寛政六年(一七九四)一二月には、常陸七郡一八二ヵ村の代官として寛政の三博士と称された儒者岡田寒泉が赴任し村々の復興に着手したが(岡田代官仁政碑)、荒廃は進行し、文化九年(一八一二)には家数五・人別二七となり、天保五年(一八三四)には八丈島から五軒の農家を移住させた(二宮尊徳伝)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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