県の西部に位置する。市の東西を
下館の名は弘治二年(一五五六)一一月二五日の結城氏新法度(松平基則氏所蔵文書)に「山川・下たて・下妻、惣別此方成敗」とあり、永禄一〇年(一五六七)鋳造の
遺跡は鬼怒・小貝両河川沿岸地域に多く分布する。鬼怒川左岸では
当市域に属する「和名抄」記載の郷は新治郡の
と記される。
小栗御厨(真壁郡協和町の→小栗御厨)の範囲は市域の北部・東部と現協和町、伊佐郡は市域西部、関郡(真壁郡関城町の→関庄)は市域南部と現関城町・下妻市に相当する。伊佐郡は「吾妻鏡」に散見する伊佐為宗・為家で知られる伊佐氏の支配下に置かれていた。為宗・為家はともに伊達朝宗(常陸入道念西)の子息で、朝宗は子息らの軍功によって源頼朝の信頼をえている(「吾妻鏡」文治五年八月八日条、建久二年一月二三日条)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報