南部伊豆諸島中最大の島。都心から南方約二九〇キロにある。
島内の遺跡の多くは東山南麓の樫立地区にある。縄文時代早期の
応永三年(一三九六)七月二三日の斯波義将施行状(上杉家文書)で、伊豆守護上杉憲定に伊豆国の所領が交付されている。この憲定の所領は前年七月二四日に父憲方の遺領として安堵されたもので、「八丈島」をはじめとする伊豆諸島の島々も含まれていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
東京都八丈支庁に属し、西約4キロメートル(以下、キロと略す)の八丈小島(無人)とともに八丈町をなす。東京の南約290キロで、伊豆諸島南部にある火山島。同諸島では大島に次いで大きい。北西の西山、南東の東山の両火山が接合したひょうたん形で、長軸約14キロ、周囲約59キロ、面積69.52平方キロ、人口8318(2009)。富士箱根伊豆国立公園に含まれ、亜熱帯気候の南国情緒豊かな観光地である。
東山(701メートル)は三原山ともよばれ、径約4キロの円形のカルデラをもつ多重式複成火山である。先カルデラ火山も後カルデラ火山も玄武岩、安山岩の成層火山で、後者の山頂火口内や山腹には噴石丘がある。東山は噴火記録がなく、開析が進んでおり、その活動は更新世(洪積世)らしい。西山(854メートル)は八丈富士ともよばれ、伊豆諸島中の最高峰で、広い裾野(すその)を引く玄武岩の成層・円錐(えんすい)火山である。完新世(沖積世)に生まれた二重式の活火山で、径約400メートルの山頂火口内に小火口丘がある。1487年(長享1)を皮切りに、1605年(慶長10)までに5回の噴火記録があり、山頂、山腹や付近海底からも噴火した。東山と西山の中間は、なだらかな傾斜地ないし平坦(へいたん)地であるが、東山の沿岸と西山の北西側沿岸は急崖(きゅうがい)をなしている。東山は山々が重複し、谷が深く、表土が厚いために水に恵まれ、随所に水源があり、飲料水、灌漑(かんがい)用水、発電用水に利用され、伊豆諸島中ここだけに水田がある。東山を囲み、坂下とよばれる北側低地の三根(みつね)、大賀郷(おおがごう)、坂上とよばれる南側山手の樫立(かしだて)、中之郷(なかのごう)、末吉(すえよし)の諸集落が湧水(ゆうすい)地に立地している。気候は高温多湿の亜熱帯性で、年平均気温17.8℃、最低気温10.1℃(1月)、降水量は年3202.4ミリメートルもあり(1981~2010年の平均値)、植物がよく繁茂し、島の約80%がシイ、サカキ、ツバキ、タブなどの常緑樹で覆われている。
鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)(源為朝)の伝説にちなみ、八郎島とよばれたのが地名の由来という。防風用の高い玉石垣、高床式の穀物庫(高倉)、急傾斜のかや葺(ぶ)き屋根、宇喜多秀家(うきたひでいえ)などの流人の墓石、漂流者の無縁塚など、島の歴史を物語る景観が随所に残されている。古くから太平洋漁業の基地で、付近にもカツオ、トビウオなどの好漁場がある。港湾は乏しいが、東に神湊(かみみなと)、西に八重根(やえね)の両港があり、離島振興法で整備されており、東京の竹芝桟橋から定期船が就航している。また、西山の南東麓(なんとうろく)の八丈島空港へも、羽田空港から多数の観光客が定期便で来遊する。綜嶼(いとしま)、女護(にょご)島、八丈島などの呼称にちなむ生糸、絹、黄八丈(きはちじょう)の生産地として知られる。また、米、麦、サツマイモなどの自給作物のほか、近年、観葉植物、球根類を主とする熱帯園芸作物栽培も盛んで、フェニックス、フリージア、パイナップル、ゴム、そのほか香料植物など多彩で、移出されている。舗装道路、温泉ボーリング、ホテル建設、観光植物園造成など、観光開発が進んでおり、類似点の多いアメリカ、ハワイ州のマウイ島と姉妹島になっている。牛角力(うしずもう)、樫立踊(国選択無形民俗文化財)、太鼓(たいこ)ばやしなどの民俗芸能や、東京都文化財に指定されている島役所跡、服部屋敷(樫立踊実演)、長戸路(ながとろ)屋敷(古文書所蔵)などの史跡や旧跡も多い。
なお、幕末の流人近藤富蔵著『八丈実記』69巻は、島の生活、風俗を伝える貴重な記録である。
[菊池万雄・諏訪 彰]
『近藤富蔵著『八丈実記』全7巻(1964~1976・緑地社)』▽『『八丈島誌』(1973・八丈町)』▽『『伊豆諸島・小笠原諸島』(1984・東京都島嶼町村会)』
伊豆諸島南部の島。面積68km2,人口8231(2010)。西約4kmにある無人の八丈小島とともに東京都八丈支庁八丈町に属する。八丈島は北西部の西山(八丈富士。854m)と南東部の東山(三原山。701m)の両火山とその間の中央低地からなる。東山は古い火山体で先カルデラ成層火山とそのカルデラ内にできた後カルデラ成層火山からなるが,噴火の記録はなく浸食もすすんでいる。西山は東山の活動終了後,完新世に入って活動が始まったと考えられ,15~17世紀に活動の記録がある。円錐形の成層火山をなし,その溶岩は中央低地を広くおおい,東山の北麓にまで達している。
近世は流刑地で〈鳥も通わぬ八丈島〉といわれ,宇喜多秀家をはじめ多くの流人が送られたが,初期の流人はいわば政治・思想犯の知識階級が多かったため島の文化的発展に寄与した。流人であった近藤富蔵が著した《八丈実記》は八丈島の地誌として知られる。
東山山麓の湧水地帯に古くからの集落が分布し,伊豆諸島唯一の水田地帯がみられる。中央低地の三根(みつね),大賀郷(おおかごう)が中心集落で,神湊(かみなと)港(底土港),八重根港があり,神湊港と東京港間に定期船の便がある。1962年には西山山麓に空港が開かれ東京と結ばれ,82年に空港拡張工事が完成して,ジェット機が羽田から1日4往復就航するようになって島の観光地化が急速にすすんだ。東山南麓の海岸には湯ノ浜温泉(弱食塩泉,97℃),汐間温泉(弱食塩泉,52~55℃)があり,西山周辺でもホテル,旅館の建設が相次いだ。高温多雨の亜熱帯的気候を利用したフェニックスやフリージアなど観葉植物や花卉の生産も盛んとなり,特産品にアシタバがある。樫立(かしたて)踊,牛角力(うしずもう)などの民俗芸能,行事がある。近世に租税の上納品であった絹織物の黄八丈を特産する。八丈小島にはかつて二つの集落があったが,過疎化がすすみ,1969年に全員が離島した。
執筆者:大村 肇
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…島人からその島が鬼ヶ島であり,昔は隠れ簑,隠れ笠,浮き沓(くつ),沈み沓などの宝があり,日ごとに人を食らい,生贄(いけにえ)をとったと聞く。為朝はこの島を八丈島の脇島(付属島)と決め,葦島(あしじま)と改名する。また大島では,島の代官三郎太夫忠重(忠光とも)の婿となり為頼など2男1女をもうけた,などとも伝える。…
※「八丈島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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