朝日日本歴史人物事典 「正親町公明」の解説
正親町公明
生年:延享1.3.25(1744.5.7)
江戸後期の公家。正親町実連の長男,母は広幡豊忠の娘。明和5(1768)年参議,安永5(1776)年正二位,同8年権大納言。安永9年以来院評定,院伝奏を務め,寛政3(1791)年12月武家伝奏となった。そのころ光格天皇は実父閑院宮典仁親王に対し太上天皇の尊号を贈ろうとし,朝幕間で折衝がもたれた。武家伝奏の公明はよくその任務に当たったが,幕府の反対で実現しなかった(尊号事件)。同5年1月幕府は議奏中山愛親と共に召喚,訊問し,事件の責任を負わせ50日間の逼塞を命じた。同年4月逼塞は許されたが武家伝奏は罷免された。宝暦12(1762)年の桃園天皇の死去に際し,彼は日記『公明卿記』に幕府のことを「東夷」と書いており,当時の公家の意識を窺うことができる。<参考文献>藤田覚「寛政期の朝廷と幕府」(『歴史学研究』599号)
(藤田恒春)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報