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正親町公明 おおぎまち きんあき

美術人名辞典の解説

正親町公明

江戸後期公卿・勤王家。初名公功侍従・大歌所別当・権大納言等を経て武家伝奏にあった時、閑院宮典仁親王の称号に関し、中山愛親副使として江戸に下る。しかし、定信との会見の結果、取計不行届で閉門を命ぜられた。後落飾して竟空と号した。著書に『藤蔭拾蕊和歌部』がある。文化10年(1813)歿、70才。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

正親町公明 おおぎまち-きんあき

1744-1813 江戸時代中期-後期の公卿(くぎょう)。
延享元年3月25日生まれ。正親町実連(さねつら)の子。明和5年参議。正二位,権大納言にすすみ,寛政2年院別当となる。翌年武家伝奏となり,尊号をめぐる朝廷と幕府老中松平定信の対立を調整したが失敗。5年江戸によばれ50日間逼塞(ひっそく)を命じられた。享和3年出家。文化10年10月13日死去。70歳。初名は公功。

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朝日日本歴史人物事典の解説

正親町公明

没年:文化10.10.13(1813.11.5)
生年:延享1.3.25(1744.5.7)
江戸後期の公家。正親町実連の長男,母は広幡豊忠の娘。明和5(1768)年参議,安永5(1776)年正二位,同8年権大納言。安永9年以来院評定,院伝奏を務め,寛政3(1791)年12月武家伝奏となった。そのころ光格天皇は実父閑院宮典仁親王に対し太上天皇の尊号を贈ろうとし,朝幕間で折衝がもたれた。武家伝奏の公明はよくその任務に当たったが,幕府の反対で実現しなかった(尊号事件)。同5年1月幕府は議奏中山愛親と共に召喚,訊問し,事件の責任を負わせ50日間の逼塞を命じた。同年4月逼塞は許されたが武家伝奏は罷免された。宝暦12(1762)年の桃園天皇の死去に際し,彼は日記『公明卿記』に幕府のことを「東夷」と書いており,当時の公家の意識を窺うことができる。<参考文献>藤田覚「寛政期の朝廷と幕府」(『歴史学研究』599号)

(藤田恒春)

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367日誕生日大事典の解説

正親町公明 (おおぎまちきんあき)

生年月日:1744年3月25日
江戸時代中期;後期の公家
1813年没

出典|日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について | 情報

世界大百科事典内の正親町公明の言及

【尊号一件】より

…その後数度の書信往復があって,朝廷側では要求を撤回したが,91年関白が一条輝良に代わると,朝廷は再び同じ要求を持ち出し態度を硬化させたので,幕府はあくまで拒絶の態度を決め,老中松平信明が上京して事に当たり,天皇はついに尊号宣下の企てを放棄した。93年幕府はこの事件にかかわった中山愛親・正親町(おおぎまち)公明の両卿を処罰し,さらに多数の公卿を戒飭(かいちよく)した。また閑院宮家には一代を限って1000石を増進した。…

【中山愛親】より

…江戸後期の公卿。議奏・前大納言であった愛親は光格天皇の命で,天皇でなかった者に太上天皇の尊号が贈られた例を調査するなど,〈尊号一件〉に終始かかわったが,1793年(寛政5)に幕府の要請で伝奏正親町(おおぎまち)公明と共に江戸に下り,老中松平定信の審問を受けた。その結果愛親は100日の閉門,公明は50日の塞となり,また職を免ぜられた。…

※「正親町公明」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

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