改訂新版 世界大百科事典 「母音変化」の意味・わかりやすい解説
母音変化 (ぼいんへんか)
vocalic change
歴史的に見た母音の変化。母音変化には,(1)質の変化と,(2)量(長さ)の変化とがある。古典ラテン語には短母音/a,e,i,o,u/と長母音/ā,ē,ī,ō,ū/の計10個の母音があった。これらが俗ラテン語では/a,ɛ,e,i,o,ɔ,u/の七つに減少している。この場合,長短の区別が失われるとともに音質にも変化が生じている。つまり/a,ā/→/a/,/ē,i/→/e/,/ō,u/→/o/となり,/ī/→/i/,/ū/→/u/と短くなったが,短母音の/e/と/o/はそれぞれ広い/ɛ/と/ɔ/に変わった。このため狭い/e/と/o/との間に質的な対立が生まれた。古典ラテン語と,俗ラテン語の直系にあたるイタリア語の間には,次のような対応が見られる。mare〈海〉はmare,sāl〈塩〉がsaleとなり,stēlla〈星〉がstella,silva〈森〉がselva,fōrma〈姿〉がforma,vulpēs〈オオカミ〉がvolpe,fīlia〈娘〉がfiglia,mūrus〈壁〉がmuroとなった。また,merda〈糞〉は/mɛrda/,porta〈門〉は/pɔrta/に変わった。
なお母音の推移は,(a)アクセントの変化や(b)隣接子音の影響によることが多い。(a)ロシア語は/a,e,i,o,u/の5母音から成る。gorod[ɡorat]〈市が〉,goroda[ɡarada]〈(複数の)市が〉のように,無強勢の/o/は/a/に変わり,reka[r'ika]〈川が〉,reki[r'ek'i]〈(複数の)川が〉のように,無強勢の/e/は/i/に変わっている。だから無強勢母音は/a,i,u/の三つとなる。(b)また,フランス語では母音の後に続く鼻音が前の母音を鼻母音へと変質させてしまっている。ラテン語のpōns〈橋〉とmanus〈手〉は,フランス語でそれぞれ[p][m]と発音される。さらに,(c)長母音が二重母音化したり,(d)二重母音が長母音化したりすることもある。(c)ウラル系のエストニア語とフィンランド語を比べてみると,tee〈道〉がtie,töö〈仕事〉がtyö,soo〈沼〉がsuoに対立する。これは中の長母音のee,öö,ooがそれぞれie,yö,uoと二重母音化した結果による。(d)現代日本語では,カウ[kau]〈校〉とコウ[kou]〈口〉はともに[koː]と発音されているが,これは二重母音の[au]と[ou]が長母音化して[oː]となった例である。
(3)母音変化において,それぞれの母音は舌の位置により相互に区別されるので,ある母音の変化が,隣接した母音の変化を促すことがある。中世英語には広い[ɔː]と狭い[oː]との対立があった。しかし,のちfole[fɔːlə]〈馬の子〉がfoal[foːl]のように[ɔː]→[oː]となったため,fol[foːl]〈ばか者〉はfool[fuːl]のように[oː]→[uː]と舌が上方へ押し上げられていった。なお,長母音をもっていたfoal[foːl]は現代では[foul]と二重母音化している。
(4)英語の名詞で,単数形の〈足〉foot[fut]が複数形ではfeet[fiːt]となる。実は古英語以前では単数形/foːt/から複数形/foːti/が作られていた。ところが末位の複数語尾/i/が前の母音/oː/を/eː/に変質させたので,中世英語では/feːt/となり,これが現代では[fiːt]に推移した。こうした名詞の単数形と複数形との間に見られる母音交替を〈ウムラウトUmlaut(母音変異)〉と呼んでいる。これは後の前舌母音/i/が前の後舌母音/o/を前舌母音/e/に変えた逆行同化の例である。
(5)また,英語の動詞における現在形bear[bɛə]〈運ぶ〉と過去形bore[bɔə]の間に見られる母音[ɛ]と[ɔ]の変化であるが,これはギリシア語のphérō[phéroː]〈運ぶ〉とphoréō[phoréoː]〈常に運ぶ〉との対立などと関係がある。こうした/e/と/o/の交替は名詞lógos[lóɡos]〈言葉〉と動詞légō[léɡoː]〈私は言う〉の間にも見られる。このような語形変化や派生変化におけるe/oの交替の起源は古く,インド・ヨーロッパ(印欧)基語にまでさかのぼるとされている。こうした母音の交替現象を〈アプラウトAblaut(母音変差)〉と呼んでいる。
執筆者:小泉 保
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報