日本大百科全書(ニッポニカ) 「永谷宗円」の意味・わかりやすい解説
永谷宗円
ながたにそうえん
(1681―1778)
江戸中期の茶業家。通称宗七郎、名は義弘。山城(やましろ)国(京都府)宇治田原湯屋谷(ゆやだに)の人。享保(きょうほう)(1716~36)のころ、近郷の湿田の干田化を推進し、のちに干田大明神と称せられる。1738年(元文3)、煎茶(せんちゃ)に抹茶の製法を取り入れ、湯で葉を蒸したあと焙炉(ほいろ)の上で手もみする方法を考案、これにより香りのよい薄緑色の良質の煎茶を得た。そこでこれを青茶とか青製茶(法)という。宗円はこれを携えて江戸に赴き、日本橋の茶商山本嘉兵衛(かへえ)を通じて販売したが、製法も急速に各地に伝播(でんぱ)した。売茶翁(ばいさおう)(高遊外(こうゆうがい))は湯屋谷に宗円を訪ね、この青製煎茶をもって売茶の生活に入っている。晩年出家して宗円と号す。墓は生家裏山にあり、定得院生誉到岸即応宗円居士と刻まれている。没後、茶宗明神と称され、生家付近に祠(ほこら)が営まれた。
[村井康彦]