河原 操子(読み)カワハラ ミサコ

20世紀日本人名事典 「河原 操子」の解説

河原 操子
カワハラ ミサコ

明治〜昭和期の教育者



生年
明治8年6月6日(1875年)

没年
昭和20(1945)年

出生地
長野県松本市

学歴〔年〕
長野県立師範女子部卒,東京女高師(現・お茶の水女子大学)中退

経歴
信州松本で漢字を教えていた父・忠と母・しなの一人娘として生まれる。長野県立師範学校女子部を卒業後、小学校教師となり、のち東京女子高等師範学校に入学するが病を得て中退。郷里で県立高等女学校の教員となるが、当地に講演に来た下田歌子の世話で、横浜在留中国人の大同学校の初の日本人女教師となる。明治35年上海の中国人女学校の教員を経て、36年蒙古カラチン王家の家庭教師兼女学校創設の教育顧問、と同時に日蒙関係をつなぐ軍事秘密情報員の使命を帯びて、日露戦争開戦直前のカラチンに単身赴き、国王夫妻の庇護の下に両方の任務をこなした。2年後に帰国、39年一宮鈴太郎と結婚して渡米、夫と共にニューヨークで17年間暮らした。著書にカラチンの事を綴った「蒙古土産」がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

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