下田歌子(読み)シモダウタコ

デジタル大辞泉 「下田歌子」の意味・読み・例文・類語

しもだ‐うたこ【下田歌子】

[1854~1936]女子教育家。岐阜の生まれ。本名、せき。歌才に富み、宮中に出仕して昭憲皇太后から歌子の名を賜った。華族女学校学監兼教授。実践女学校を創立愛国婦人会会長。

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精選版 日本国語大辞典 「下田歌子」の意味・読み・例文・類語

しもだ‐うたこ【下田歌子】

  1. 教育家。美濃国岐阜県出身。前名鉐(せき)。宮中女官となり明治天皇の皇后(のちの昭憲皇太后)から歌子の名を賜わる。華族女学校創立に参画、学監、教授となる。実践女学校、女子工芸学校を創設学習院女学部長、実践女子専門学校、順心高等女学校、明徳女学校などの校長歴任。安政元~昭和一一年(一八五四‐一九三六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「下田歌子」の意味・わかりやすい解説

下田歌子
しもだうたこ
(1854―1936)

女子教育者。嘉永(かえい)7年8月8日美濃(みの)国岩村藩士の平尾家に生まれる。幼名鉐(せき)。1872年(明治5)宮中女官となり皇后より歌子の名を賜ったが、1879年辞官して旧丸亀藩士下田猛雄(?―1884)と結婚。1881年伊藤博文(ひろぶみ)らの勧めで良妻賢母主義による上流子女教育を目的とした桃夭女塾(とうようじょじゅく)を開いた。夫と死別後、1885年華族女学校開設と同時にその学監兼教授となる。1906年(明治39)同校が学習院女子部となったとき部長に就任したが翌1907年辞職。なお1899年に実践女学校(現、実践女子大学)を創立、校長となったほか、帝国婦人協会会長(1898)、愛国婦人会会長(1920)として女性運動にも活躍。著書に『女子の心得』(1905)、『女子の修養』(1906)、『日本の女性』(1913)、『香雲叢書(そうしょ)』(1918)など多数がある。

[小股憲明]

『西尾豊作著『下田歌子先生伝』(1943・故下田校長先生伝記編纂所/1989・大空社)』


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20世紀日本人名事典 「下田歌子」の解説

下田 歌子
シモダ ウタコ

明治〜昭和期の女子教育家,歌人 華族女学校教授;実践女子学園校長。



生年
嘉永7年8月8日(1854年)

没年
昭和11(1936)年10月8日

出生地
美濃国恵那郡岩村(岐阜県岩村町)

旧姓(旧名)
平尾

別名
幼名=平尾 銘(ヒラオ セキ)

経歴
明治4年上京、祖父の東條琴臺に師事、5年から7年間宮中に仕え、宮内省十五等出仕、8年権命婦となった。皇后に和歌を献じ歌才にちなんで歌子の名を賜わる。12年辞職し、東京府士族下田猛雄と結婚したが数年で夫に死別。14年桃夭女塾を創設、華族の子女を教育。17年宮内省御用掛となり、18年華族女学校(学習院女学部の前身)創設で同校幹事、教授となった。以来20余年間、華族子女の教育に貢献。26年欧米に出張、28年帰国。31年帝国婦人協会を創設、会長となり、32年実践女学校(実践女子大学の前身)、女子工芸学校を創立、実践女子学園校長を務めた。39年華族女学校が廃止され改めて学習院教授兼女学部長となった。大正9年社団法人・愛国婦人会会長となり全国を講演旅行。上流社交界で明治の紫式部といわれ、宮中に隠然たる勢力を持つ。従三位、勲三等。著書に「家庭文庫」「婦人礼法」「日本の女性」「香雪叢書」、歌集に「雪の下草」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「下田歌子」の意味・わかりやすい解説

下田歌子 (しもだうたこ)
生没年:1854-1936(安政1-昭和11)

皇室中心主義,国家主義の立場にたった女子教育者。幼名,平尾鉐(せき)。岐阜県出身。1872年から女官生活,79年結婚し退官。夫と死別後,81年上流家庭子女に純日本的教養を与える桃夭(とうよう)女塾を開設,賢母良妻の育成に努めた。華族女学校開設(1885)に参与し1907年まで皇女・貴女教育に従事。この間イギリスの皇女教育,欧米諸国の女子教育とともにその国情を視察し,1898年,婦人労働問題の未然の防止,国威をそこなう海外醜業婦問題の解決などを願って婦人大衆の教育を企図して帝国婦人協会を創設。貧困女性の教育機関として99年創立の実践女学校(実践女子大学の前身)は協会事業の一環だったが,実際には中・上流家庭子女の中等教育機関となった。1901年以降,この学校では清国女子留学生も受け入れた。01年愛国婦人会設立に参加,17年処女会中央部理事,20年愛国婦人会会長に就任,女性の国家的自覚をたかめる社会教育活動にも活躍した。
執筆者:

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「下田歌子」の解説

下田歌子 しもだ-うたこ

1854-1936 明治-昭和時代前期の教育者。
嘉永(かえい)7年8月8日生まれ。美濃(みの)(岐阜県)岩村藩儒者・平尾鍒蔵の娘。祖父は東条琴台。明治5年女官となり,皇后から歌子の名をうける。下田猛雄と結婚。14年桃夭(とうよう)女塾を開設。18年華族女学校(女子学習院の前身)の設立に参画し,教授,学監となる。31年一般の女子のために帝国婦人協会を設立し,翌年,付属の実践女学校(実践女子大の前身)を創立した。昭和11年10月8日死去。83歳。幼名は鉐(せき)。著作に「香雪叢書」「家政学」など。
【格言など】年若き少女は花の如くなるべし(教え子たちへの訓示)

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百科事典マイペディア 「下田歌子」の意味・わかりやすい解説

下田歌子【しもだうたこ】

女子教育家,婦人運動家。岐阜県生れ。幼名鉐(せき)。宮内省御用掛を務め,結婚により退官。夫と死別後,1881年桃夭(とうよう)女塾を開設,〈純日本的〉教養を与え,良妻賢母の育成を目ざした。華族女学校(女子学習院の前身)の創設に参与。1898年帝国婦人協会を組織し,翌年同付属女学校(実践女子大学の前身)を創立。のち愛国婦人会会長も務め,国家主義的立場に立ちつつ,広く女子教育に活躍した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「下田歌子」の意味・わかりやすい解説

下田歌子
しもだうたこ

[生]安政1(1854).8.8. 岐阜,岩村
[没]1936.10.8. 東京
女子教育家。明治初年から宮中に出仕し,1886年華族女学校の創立に参与し,同校学監,教授。 1906年同校が学習院女子部になるとともに女子部部長となり,皇族,華族の女子の教育に尽力した。また実践女学校を創設,実践女子大学への発展の道を開いた。教育の基本方針は皇室中心の良妻賢母主義であった。また 01年の愛国婦人会の創立にも参画し,21年には会長に就任,全国各地で講演して会勢の拡大に努めるなど婦人団体の活動にも貢献した。著書『和文教科書』 (3巻,1885) ,『婦人礼法』 (1911) など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「下田歌子」の解説

下田歌子
しもだうたこ

1854〜1936
明治・大正時代の女子教育家
美濃(岐阜県)の生まれ。1872年から宮中に仕え,のち華族女学校教授・学習院女学部長を歴任。また実践女学校を創立するなど女子教育に尽力。愛国婦人会会長もつとめた。

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367日誕生日大事典 「下田歌子」の解説

下田 歌子 (しもだ うたこ)

生年月日:1854年8月8日
明治時代-昭和時代の女子教育家。愛国婦人会会長
1936年没

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世界大百科事典(旧版)内の下田歌子の言及

【愛国婦人会】より

…北清事変の際,慰問使として従軍した奥村五百子が主唱し,皇妃を総裁に,軍部や内務省に後押しされて上流婦人を組織した。創立趣意書は下田歌子が起草。機関誌《愛国婦人》を発行し,〈半衿一かけを節約して愛国婦人に〉と呼びかけ,日露戦争中に一般女性にまで組織を拡張,慰問袋作り,兵士送迎などに女性を動員した。…

【飯野吉三郎】より

…予言を通じて山県有朋,伊藤博文,清浦奎吾らの知遇を得,政財界の上層部に信者をもち,隠然たる勢力をもった。また華族女学校の創立者で〈明治の紫式部〉と呼ばれた下田歌子と結んで皇室にも影響を及ぼし,皇太子の外遊問題にも介入して〈日本のラスプーチン〉とも呼ばれた。1925年詐欺汚職事件に関係して失脚した。…

【活人画】より

…日本では江戸末期の寄席(よせ)芸に類似のものがあったが,独立した存在となったのは近代以後,西洋の影響を受けてからである。明治初年,まず名画を模したものが紹介され,中期の欧化主義時代から流行,初めは外国人の手によったが,1903年教育家下田歌子が実践女学校創立のため開催した水交社(海軍将校の社交団体)の園遊会で余興に試みてから,女学校や小学校の学芸会などに流行した。また1948年,第2次世界大戦後の東京の帝都座などに,〈額縁ショー〉と称する裸体活人画が生まれて一時流行し,のちのストリップショーの先駆となった。…

【着物】より

…1899年医学者ベルツの,日本の女子の体格が悪いのは帯によるという意見にもとづき,女学生が袴を採用するようになったのはその一例である。一般の着物については,1902年実践女学園校長下田歌子らが改良の必要を説き,試案を出したのが始まりである。東京女子体操音楽学校校長藤村トヨは女の着物の欠点を科学的に研究し,1915年に一種の改良服をつくったが,それは朝鮮服に近いもので,広く用いられずにおわった。…

※「下田歌子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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