改訂新版 世界大百科事典 「ニューヨーク」の意味・わかりやすい解説
ニューヨーク
New York
アメリカ合衆国の最大都市。ニューヨーク州の南東端,ハドソン川河口の大西洋岸に位置する。面積780km2,人口814万3197(2005)。ニューヨーク州南部,ニュージャージー州北東部にまたがる大都市域の人口は855万(1992)。ボストンからワシントンD.C.に至るアメリカ・メガロポリスの中核都市であるとともに,合衆国はもとより世界経済の中枢であり,国際連合の本部所在地でもある。世界有数の港湾施設をもち,航空・陸上交通の拠点である。また,第2次大戦後はパリに代わって世界の最も重要な芸術の中心地にもなっている。名称の由来は明らかではないが,〈ビッグ・アップルBig Apple〉の愛称をもつ。
ニューヨークはいくつかの恵まれた自然条件を有している。合衆国北東部の大西洋岸はおおむね港に適した自然条件を備えているが,ニューヨークの港湾機能はとくに優れている。ボストンなどニューイングランドの港湾が内陸部に通じる河川を欠くのに対し,ニューヨークは可航河川であるハドソン川を擁し,かつニューヨーク湾は一年を通じて大型船の航行が可能である。加えてスタテン島とロング・アイランドが湾の自然堤防の役割を果たし,アッパー・ニューヨーク湾という停船に適した水域をもつ。位置的にも大西洋岸において,歴史的に工業化の先進地域であったニューイングランドと農業プランテーションが展開した南部とのほぼ中間に位置し,さらにエリー運河によって中西部五大湖地方とも結ばれた。対外的にも,北大西洋航路の要衝で,貿易,移民受入れの中心であった。また,ニューヨークの中心であるマンハッタン島は地質的に硬い岩盤から成るため,高層建築(スカイスクレーパー)の集中を可能とした。こうした自然条件が歴史的条件とあいまって,ニューヨーク発展の基盤を築いたといえよう。
ニューヨーク市はマンハッタンManhattan,ブルックリンBrooklyn,クイーンズQueens,ブロンクスBronx,スタテン島Staten Islandの5自治区から成る。ニューヨークの政治,経済,文化の中心をなすマンハッタン(人口約150万)は,南からダウンタウン,ミッドタウン,アップタウンの三つに大別される。ダウンタウンは14丁目以南の,ニューヨークでは最も歴史が古い地域で,道路は複雑に入り組んでいる。一方,セントラル・パークの南辺で分かたれるミッドタウンとアップタウンでは,道路は碁盤目状に走っている。アベニューと呼ばれる大通りが島の基線(ほぼ南北)方向に,比較的狭いストリートがそれと垂直に交わる。おおむねアベニューは東から,ストリートは南から順番に番号を付されている。マンハッタンを斜めに縦断するのがブロードウェーである。ダウンタウンには,ウォール街を中心とする金融街や世界第3の高さの世界貿易センター(110階,高さが北棟417m,南棟415mの双子ビル)のほかに,チャイナタウン,リトル・イタリー,ロワー・イースト・サイドなどの居住区がある。なお世界貿易センターは,2001年9月11日テロリストのハイジャック機に激突されて崩壊,約3000人の犠牲者を出した。芸術家,作家が住みボヘミアン的雰囲気で長い間知られたグリニチ・ビレッジもダウンタウンに含まれる。ミッドタウンは商業活動が活発な地域で,約40年間にわたって世界一の高さを誇ったエンパイア・ステート・ビル(102階,381m)の西方にはデパート街や衣服産業地区が,また目抜き通りの五番街には高級商店街が続く。五番街と六番街の間の47丁目一帯は,ユダヤ人が経営する宝石店が集中しており,アメリカの貴金属取引の大半を扱っている。ミッドタウンにはまた,グランド・セントラルとペンシルベニアの2ターミナル駅が位置し,都市交通の中心でもある。北寄りにはニューヨーク近代美術館や〈都市の中の都市〉ロックフェラー・センターの摩天楼がそびえる。七番街とブロードウェーが交差するタイムズ・スクエアはブロードウェー・ミュージカルの中心で,映画館や世界各地の料理店も集中している。アップタウンはセントラル・パークによって東西に分けられるが,芸術関係の施設が多い。セントラル・パーク(面積3.4km2)の森林や庭園はマンハッタンでは貴重な自然を提供しており,公園内にはデラコーテ劇場,野外音楽堂,動物園,各種スポーツ施設が設けられている。公園の東側には五番街に面してグッゲンハイム美術館,メトロポリタン美術館,フリック美術館などが,西側にはアメリカ自然史博物館とリンカン・センターがある。リンカン・センターには,メトロポリタン・オペラ・ハウス,ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の本拠エーベリー・フィッシャー・ホール,ニューヨーク・シティ・バレエ団とニューヨーク・シティ・オペラがシーズンを交替して公演するニューヨーク州立劇場,ジュリアード音楽学校が含まれる。セントラル・パークの周辺には超高級アパートが林立している。マンハッタンの最北部には黒人居住区ハーレムとプエルト・リコ人居住区イースト・ハーレム(スパニッシュ・ハーレム)が広がっている。
イースト川を隔ててマンハッタンの東側のロング・アイランドには,ブルックリン(人口約229万)とクイーンズ(人口約195万)の2区がある。ブルックリンはニューヨーク5区のうち最も人口が多く,河岸,湾岸には大規模な港湾施設を有し,衣服産業も盛んである。クイーンズは面積が最も大きい区で,その北部にはラ・ガーディア空港,南部にはJ.F.ケネディ国際空港というニューヨークの二大空港が位置する。ほかに区としては,マンハッタンの北側の大陸部にブロンクス(人口約120万),ニューヨーク湾内にスタテン島(人口約38万)がある。
経済,交通
通商都市として発展したニューヨークにおいて,貿易業とくに港湾によるそれは今日でも重要な産業である。1921年に設立されたニューヨーク・ニュージャージー港湾公団がおもに港湾業務を管理している。ハドソン川に面したマンハッタン西岸に連なる桟橋がその中心であったが,コンテナー輸送への対応の遅れ,ニューヨークを経由しないセント・ローレンス水路(1959開通)を利用した五大湖地方へのルートの発展により,ニューヨークの港湾機能は相対的に低下した。しかし,ブルックリンやスタテン島の桟橋はコンテナー輸送の施設を有しており,ニューヨークはコンテナーによる合衆国総輸出入量(重量)の約20%(1981)を占め,依然として全米一の港湾である。港湾公団が所有する世界貿易センターは文字どおり貿易業の中枢であるが,このセンターが位置するマンハッタン南部にはウォール街を中心とする金融街(ニューヨーク金融市場)がある。世界最大規模のニューヨーク株式取引所をはじめ国際的な金融機関や商品取引所が集中しており,アメリカはもとより世界の金融・資本市場の中心である。ニューヨークはまた,全米最大の卸売業の中心地であり,小売業も発達している。製造業においては,既製服や印刷,出版などの消費地立地型のものが中心である。既製服産業ではマンハッタンのタイムズ・スクエアの南西,ガーメント・センターが有名だが,この産業の中心はブルックリンに移っている。ガーメント・センターの七番街にはデザイナーの仕事場が集中しており,ニューヨーク・ファッションの中枢でもある。マスコミの分野では,テレビの三大ネットワーク(CBS,ABC,NBC)をはじめAPなどの通信社も本拠を構えており,出版業とあいまってニューヨークをアメリカのマスコミの中心たらしめている。代表的な新聞・雑誌には《ニューヨーク・タイムズ》《ニューヨーカー》《ネーション》(1865創刊)などがある。前衛的ボヘミアンのスポークスマンとしてユニークな役割を果たしてきた《ビレッジ・ボイス》や,人種,民族のるつぼを反映して各国語の新聞・雑誌も多数発行されている。
ニューヨークはアメリカの都市としては例外的に鉄道依存率が高い。マンハッタンのグランド・セントラル駅とペンシルベニア駅を中心に市内を網の目のように地下鉄が走り,郊外電車も各方面に延び,ボストンやワシントンD.C.などとはアムトラックで結ばれている。郊外にある自宅と最寄り駅との間は自家用車を利用し,そこから鉄道で都市部へ通勤するパーク・アンド・ライド方式も盛んである。バス路線もよく発達しており,ニューヨークの公共輸送機関の利用率は全米一である。市内に居住する勤労者の約56%(1980)が通勤に利用しており,自動車の普及とともに発展したロサンゼルス(約11%)とは好対照である。しかし郊外においては自家用車が主たる交通手段で,大規模な駐車場をもつショッピング・センターが各地に見られ,マンハッタンとは趣を異にする。ニューヨークは川や湾によって市内が分断され交通上の障害であったが,1883年に完成したブルックリン橋をはじめ,ジョージ・ワシントン橋(1931完成),自動車専用のホランド・トンネル(1927開通)などの橋やトンネルによって,マンハッタンを中心に他区やニュージャージー州と結ばれている。また,J.F.ケネディ国際空港(1948開港)をはじめとする多数の空港やヘリポートの存在は,ニューヨークを内外航空の拠点たらしめている。
歴史
1524年,ヨーロッパ人として初めてマンハッタン島を発見したのは,現在ベラザノ・ナローズ橋にその名をとどめるイタリア人航海者G.daベラツァーノであったといわれる。1609年にはオランダに雇われたイギリス人H.ハドソンが現ハドソン川を遡航,オランダは20年代から植民に乗り出し,26年にはマナハッタ(マンハッタンの語源)・インディアンに60ギルダー(約24ドル)相当の品物を渡して島を手に入れ,ニューネーデルラント植民地の主都ニューアムステルダムとした。53年,島の南部にインディアンやイギリス人の侵入を防ぐために城壁(ウォール)が築かれた。数年後,壊れた城壁のあとに造られた通りが,現在金融街として有名なウォール街である。その後,英蘭戦争に際してニューネーデルラントは64年にイギリスに占領され,時のイギリス国王の弟ヨーク公(のちのジェームズ2世)にちなんでニューアムステルダムはニューヨークと改名された。
植民地時代のニューヨークはボストンやフィラデルフィアよりは小さな町であったが,恵まれた地理的条件を生かして港湾都市として発展した。アメリカが独立を達成したときには,その最初の首都(1784-90)に選ばれるまでに成長し,18世紀末には貿易量においてボストンやフィラデルフィアを抜くに至った。さらに1825年,エリー運河の完成によってハドソン川経由で五大湖周辺の中西部とも結ばれ,19世紀前半,ニューヨークは貿易とともに金融,商業の中心地としての地位を不動のものとした。移民の受入れ港でもあったニューヨークでは,40~50年代からアイルランド系,ドイツ系移民が急増し,人口も60年には1840年の2.6倍の81万に達したが,一方ではノー・ナッシング党結成などカトリック系移民の受入れに反対する動きもあった。19世紀前半のニューヨークで,のちの都市形成上重要な決定が二つなされた。マンハッタンの現ミッドタウン以北に今後建設される道路は直線でなければならないとした決定(1811)と,セントラル・パークの建設決定である。後者は,W.C.ブライアントやW.アービングらの文化人による約10年にわたる建設要求運動が結実したもので,市は1856年に公園用に土地を購入する。
南北戦争から第1次大戦に至る時代に,今日のニューヨークの原型が形成される。市内交通の混雑緩和を図る高架鉄道は1867年にマンハッタンで実験的に運行され,70年代以降普及(電化は20世紀初頭)した。さらに,ブルックリン橋の完成(1883),地下鉄の開通(1904),20世紀初頭の数本の鉄道用河底トンネルの完成によって,マンハッタン島を中心とするニューヨークの交通事情が好転した。98年にはブルックリンを併合して,現在の5区を含む大ニューヨーク市が形成された。また,20世紀初頭にはシカゴに次いで摩天楼時代を迎え,シンガー・ビル(1907),ウールワース・ビル(1913)などが完成する。この時代には東欧や南イタリアからの移民が増え,衣服産業などに労働力を提供した。独立100年を記念してフランスが寄贈した自由の女神像(現リバティ島に建つ。1886完成)が移民を歓迎し,マンハッタン南端のカスル・ガーデンに代わって1892年以降移民局の施設が置かれたニューヨーク湾内のエリス島は〈新世界への玄関〉と呼ばれた。しかし,世紀転換期のリアリズム文学に描かれたように居住環境は悪く,1900年の国勢調査によれば市人口344万の約70%が貧困地帯の密集したアパートに住んでいた。民主党の政党機関タマニー・ホールは移民に職を世話する一方で,移民票を買収し,1860年代から20世紀にかけて市政を牛耳り,そのいわゆるボス政治はしばしば汚職問題を引き起こした。
1920年代の制限法によって移民の流入は激減するが,第1次大戦前後から南部の黒人がマンハッタン北部のハーレムを中心に多数移住する。黒人人口の増加と自動車の普及によって,20年代には中産階級の郊外移転が急速に進展した。第1次大戦後,ニューヨークはロンドンと並ぶ世界経済の中心となり,ジャズ・エージとも呼ばれる繁栄の時代を迎え,ブルックリン南端の行楽地コニー・アイランドがにぎわった。しかし29年,ニューヨーク株式市場の株価大暴落は世界規模の大恐慌を引き起こし,セントラル・パークには失業者が掘立小屋を建てて住みついた。この時代に市長を務めたF.H.ラ・ガーディア(在職1934-45)は公共事業の促進を図り,ニューヨーク版のニューディール政策を実施したといえよう。クライスラー・ビル(1930)やエンパイア・ステート・ビル(1931)が完成し,ロックフェラー・センターやラ・ガーディア空港(1939開港)の建設が進められた。第2次大戦後は,戦争によって疲弊したイギリスに代わってアメリカは世界大国としての地位を確立し,ニューヨークは世界経済の中心となり,国際連合の本部所在地ともなった。しかし,戦後急増したプエルト・リコ移民を含む人種問題の複雑化,中産階級の郊外移転,都市財政の悪化など,ニューヨークはさまざまな都市問題を抱えるに至った。さらに戦後,合衆国南部の産業拡大が急速に進み,ニューヨークの相対的地位は低下しつつある。
執筆者:正井 泰夫+山本 泰男
都市問題
合衆国の他の大都市と同様にニューヨークは第2次大戦後,交通問題,住宅問題,人種問題,公害問題などの都市問題を抱えるようになった。自動車の普及と高速自動車道の建設によって,白人中流階級は,黒人やプエルト・リコ人あるいは海外からの移民との混在的生活から逃れるように郊外へ移動した。このため,マンハッタン島は低所得者階層の比率が増大し,ニューヨーク市の税収は大幅に減少した。その後,ニューヨーク市と州が増税を実施すると,大企業のオフィスや企業も郊外や近隣諸州に脱出した。市当局は高福祉を維持したが,スラム改良費,生活保護費などの増大と老朽化した都市施設の保全のため,1970年代半ば,市財政は破産寸前にまで追いこまれた。
郊外住宅地の拡大は高速道路網の整備によるところが大きかったので,マンハッタン島には橋やトンネルを経由して多数の自動車が流入し,朝夕のラッシュ時には交通混雑が恒常化した。地下鉄網は市のほぼ全域に及んでおり,利用客も多いが,治安が悪く犯罪率も高いので,敬遠する人々もいる。
ニューヨーク市の人口はおよそ白人60%(1980),黒人25%,アジア系3%,インディアン0.2%,その他11%であるが,そのうち,白人に分類されるユダヤ人が17%,白人や黒人に分類されるプエルト・リコ人などのスペイン語系が20%を占めており,ニューヨークは多数の人種・民族集団から成っている(1990年代初めには,黒人28.7%,ヒスパニック系24.4%,アジア・太平洋諸島系7%,インディアン0.4%,それ以外39%)。このようなエスニック構成を背景に,1989年には初の黒人市長が登場した(93年まで在任)。一方,これらの人種・民族の複雑性が都市問題をいっそう深刻にしている。多くの人種・民族集団の中で,黒人とプエルト・リコ人は貧困世帯が多く,ニューヨークの貧困世帯の約80%を占めている。黒人居住地区のハーレムやサウス・ブロンクスおよびブルックリン中央部,そしてプエルト・リコ人居住地区のイースト・ハーレムおよびブルックリンにはスラムが広がっている。所得や教育水準の違いから,人種・民族集団間には社会的緊張が存在するため,各人種・民族集団は,ハーレム,イースト・ハーレム,中国系のチャイナタウン,イタリア系のリトル・イタリーなど市内の特定地区に集中して居住する傾向がある。ニューヨークの犯罪発生率は年間10万人当り1万7065件(1980)と高く,東京(23区)の7.7倍にあたるが,犯罪頻発地域は低所得者階層の住む地区と重なる。しかし,ニューヨークの財政は苦しく,犯罪を取り締まる警察官の数は人口10万人当り228人で,東京の85%である。
スラムでは,建物の所有者が再開発を期待して居住者を追い出すため,あるいは火災保険金目当てに放火する例が多い。また,家屋焼失者に対する福祉目当てに居住者みずから放火する例もある。ニューヨークの火災件数は年間12万7876件であり,東京の25倍にも達する。不動産価値の高いマンハッタンでは低所得者階層が都心から追いたてられる傾向にあり,ブロンクス,クイーンズ,ブルックリンの公共交通網に沿って,プエルト・リコ人を中心とする西インド諸島系および黒人のスラムが拡大しつつある。
執筆者:菅野 峰明
文化
ニューヨークは,古くからアメリカの最も重要な文化的要因をなしている。最初の職業作家の一人W.アービングを有名にしたのは,ニューアムステルダム時代のニューヨーク社会を戯画化した物語《ニューヨークの歴史》(1809)であった。以後ニューヨークに住み,この都会を描き,あるいは少なくともここでの生活に霊感を得て書いた作家や詩人は無数といってよい。
とくにマンハッタンの下町(ダウンタウン),五番街の起点で,ワシントン・スクエア一帯を指すグリニチ・ビレッジの果たした役割が大きい。この地域は,19世紀の末葉まではむしろ高級住宅地で,《モヒカン族の最後》(1826)などを書いたJ.F.クーパーが住み,また死の前年(1915)イギリスに帰化した大作家H.ジェームズも,幼少時代をこの町で過ごし,のちに傑作中編《ワシントン・スクエア》(1881)を書く下地を作った。1837年一文なしでニューヨークにやってきたE.A.ポーも,ワシントン・スクエア近辺にしばらく住んでいたという。ほかにもH.メルビル,晩年のマーク・トウェーンなど,ここに住んだ作家の数は実に多い。また詩人ホイットマンは,おもにブルックリンに住んだが,マンハッタンの下町にも一時いたことがあり,そのボヘミア的雰囲気を愛して,自分のことを〈マンハッタンっ子Manhattanese〉とさえ呼んでいた。
世紀末にニューヨークの大都市化が進むと,大都市を描くリアリズム文学が現れてくる。ボストンから移ってきたW.D.ハウエルズ,マンハッタンの悪名高いスラム街バワリーを描いたS.クレーンなどである。とくにクレーンは,小説《街の女マギー》(1893)で,貧困と汚濁の世界というショッキングな題材をひっ下げ,お上品趣味の読書界の偽善と戦った。やはり無名時代からビレッジに住んだドライサーも,《シスター・キャリー》(1900)その他で,ニューヨークやシカゴに生きる人々の生活を社会進化論的な観点から描き,アメリカのリアリズム文学の地歩を揺るぎないものにした。
こうしたリアリズム文学(ないし自然主義文学)の興隆と軌を一にして,美術のほうでもニューヨークの市民生活をリアルな目でとらえた新しい画家のグループが出現している。1890年代にフィラデルフィアからニューヨークに移ってきたR.ヘンライを筆頭にするいわゆる〈アッシュ・キャン・スクール(ちり箱派)〉である。きれいごとしか描かないアカデミズムに反逆して,彼らはおもに市井の庶民生活をリアルに表現した。ヘンライのほか,とくにジョン・スローン,ジョージ・ラクスなどが重要である。
しかしアメリカの美術を真に現代的にするのに最も功績があったのは,1905年,五番街291番地に〈291〉画廊を創設,マティスをはじめヨーロッパのモダニズム画家たちを次々にアメリカに紹介,またジョン・マリン,G.オキーフなど,数々のアメリカの現代画家を育てたA.スティーグリッツであろう。彼は《カメラ・ワーク》という美術文芸雑誌も出して,まだ認められていない前衛画家や詩人たちに発表場所を提供した。パリにいたG.スタイン,ニュージャージーの詩人W.C.ウィリアムズ,画家で詩人のマーズデン・ハートリーをはじめ,この雑誌の恩恵を受けた芸術家は少なくない。スティーグリッツは,優れた啓蒙家であるとともに,芸術写真の創始者の一人でもあり,ニューヨーク市街を撮影した美しい作品を数多く残している。
さらに,1913年に開かれた〈アーモリー・ショー〉という大美術展も特筆すべきであろう。印象派,キュビスムなど,ヨーロッパの新しい絵を初めて大々的にアメリカに紹介したもので,のちにニューヨークで活躍するフランス生れのM.デュシャンによるキュビスム風の出品作《階段を下りる裸婦》など,アメリカ美術界に大きな衝撃を与えた。
その間にグリニチ・ビレッジの性格は一変し,金持ちはアップタウンに移り,ビレッジは,パリのモンマルトル,ロンドンのソーホーに似たボヘミア街に変貌する。だいたい世紀の変り目ごろであった。ビレッジの名にふさわしく,狭い入り組んだ石畳の道が行き交い,その味わい深い町並みと,安い家賃にひかれて,貧乏な作家,芸術家が住むようになった。ドライサー,S.アンダーソン,W.キャザーなどの作家,そして劇作家E.G.オニールらは,ここに最初のオフ・ブロードウェー劇場を作っている。第1次大戦後になると,小説家のドス・パソス,詩人のカミングズ,M.ムーア,H.クレーンなど,ビレッジを根城にした作家の数は実に多い。
20年代のジャズ・エージには,ドス・パソスが《マンハッタン乗換駅》(1925)でニューヨークを生き生きと描き,同じ年にF.S.フィッツジェラルドが,マンハッタンと郊外のロング・アイランドを舞台に,傑作《偉大なるギャッツビー》を発表した。
マンハッタンの北部にあるハーレムも,文学には縁が深い。もともとオランダ人の開いた地区で,はじめは白人が住んでいたが,第1次大戦前後から徐々に黒人地区となり,1920年代には〈ハーレム・ルネサンス〉といわれて,黒人作家がここから輩出する。ハーレムを描いた詩人や劇作家のなかでは,J.L.ヒューズやジーン・トゥーマーなどが重要である。そして第2次大戦後に活躍しだした作家J.ボールドウィンは,ハーレムに生まれ,R.ライトに次ぐ重要な黒人作家とされている。
アメリカ美術のヨーロッパ模倣時代は,第2次大戦後になってようやく終わったといえよう。20世紀初頭以後,現代芸術運動のほとんどすべては,ヨーロッパ,とくにパリを中心として興っていた。だが50年代以後は,その役割がニューヨークによって取って代わられた観がある。とくに美術におけるJ.ポロック,デ・クーニングらの,いわゆるニューヨーク派,あるいは抽象表現主義,そして60年代になって隆盛を極めたウォーホルなどのポップ・アート,ミニマル・アート,そして80年代に興った新表現派(ニュー・ペインティング)など,後期モダニズムを代表する主要な美術運動は,すべてニューヨークと切り離して考えることはできない。同時に第2次大戦中ナチス・ドイツから亡命してきた者をはじめ,世界の代表的芸術家の多くが,ニューヨークに新しい活躍の場を求める傾向が強くなってきている。
また戦後の文学では,J.D.サリンジャー,J.アップダイク,D.バーセルミらが《ニューヨーカー》誌を,J.ボールドウィン,K.ボネガットらが《ネーション》誌をそれぞれ舞台に活躍している。
演劇は,早くからニューヨーク文化の重要な要素として,ブロードウェーを中心に発達,すでに植民地時代の1735年,ブロードウェーに芝居小屋があったという記録がある。しかしニューヨークの演劇が真に優れた演劇性を獲得したのは,1920~30年代で,それはおもに,G.B.ショーやオニールを含むヨーロッパおよびアメリカの新しい劇作家を紹介した〈シアター・ギルドTheatre Guild〉というグループの活躍に負うところが多い。グループはまた,ラント夫妻のような名優も多く育てた。だがブロードウェーが,おもにミュージカル・コメディの発達につれて商業化するに伴い,様相が変わってくる。すなわち,とくに第2次大戦後,ビレッジなど,ブロードウェー以外の地域に,いわゆるオフ・ブロードウェー劇場が興り,小規模,小資本でしばしば実験的な演劇を上演するようになる。70年代になると,さらに小資本のオフ・オフ・ブロードウェー劇場が生まれて,今やニューヨークには,さまざまなレベルでの演劇活動が殷賑(いんしん)を極めている。また1954年に創立された〈ニューヨーク・シェークスピア・フェスティバル〉の存在も特筆に値しよう。おもにシェークスピアの作品を毎夏セントラル・パークで上演するほか,1967年の問題作《ヘア》以来,グリニチ・ビレッジのオフ・ブロードウェー劇場で新しい実験的な劇も上演し,アメリカの演劇界に大きな活力を与えている。
執筆者:金関 寿夫
ニューヨーク[州]
New York
アメリカ合衆国北東部の州。略称N.Y.。独立13州の一つで,連邦加入1788年,11番目。面積12万2283km2,人口は1937万8102(2010)で全米第3位。州人口は1810年以来第1位であったが,1960年代にカリフォルニア州にその座を譲り,90年代初めにはテキサス州にも追い越された。州都オルバニー,最大都市ニューヨーク。州名は1664年以後,オランダからイギリスへ支配が移ったときに,のちのイギリス王ジェームズ2世となったヨーク公の名をとって命名された。アメリカ最大の都市ニューヨークを擁して,経済・文化の中心地であったことから〈エンパイア・ステートEmpire State(帝国州)〉とも呼ばれる。アパラチア山脈に属する丘陵,山地(キャッツキル山地など)とアディロンダック山地が州の大半を占め,氷河湖が散在する。北部から西部にかけては,エリー湖,オンタリオ湖,シャンプレーン湖を含むセント・ローレンス水系に面する低地が続き,中部から南東部にかけてはハドソン水系の低地があり,ニューヨーク市を中心とする南東部大西洋岸地域とともに商工業および農業の盛んな地域である。湿潤大陸性気候が卓越し,北海道と似た気候であるが,南東部は湿潤温暖気候となる。アメリカで最も工業化の進んだ州の一つで,製本・印刷,機械,電気・電子,繊維,食品加工,化学,自動車などあらゆる製造業が発達している。同時にニューヨーク市は全米の金融・商業の中心的位置を占めている。また酪農製品や野菜を中心とする農業は,乳牛や養鶏の飼育が盛んであり,オンタリオ湖沿岸のリンゴ栽培やブドウなどの果樹作物も重要である。ナイアガラ滝のほか各地の観光・保養地をアメリカ・メガロポリスから多くの人々が訪れる。この地方はもともとアルゴンキン諸族およびイロコイ諸族のインディアンの居住地域であった。1609年にオランダに雇われたイギリス人H.ハドソンが現在のハドソン川をさかのぼって,オランダが支配権を主張した。14年オランダ人がオルバニー付近に拠点を建設,さらに26年にはマンハッタンを買収し,一帯を〈ニューネーデルラント(新オランダ)〉と称したが,64年以後はイギリス領になった。
執筆者:正井 泰夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報