もっぱら初等学校教員の養成を目的とした学校。
[津布楽喜代治]
19世紀中葉に欧米諸国において国民普通教育制度の成立とともに、その直接的な担い手として大量の教員が必要となり、これを養成する学校として師範学校が設立された。アメリカではノーマル・スクール、フランスではエコール・ノルマル、イギリスではトレーニング・スクール、プロイセン(ドイツ)ではレーラーゼミナールとよばれていた。ノーマル・スクールはラテン語のノルマに由来するが、そもそも大工のかね尺の意であり、型、模範、法則を意味した。つまり、教授の型ないし法則(教授法)を教える学校であった。
日本では、1872年(明治5)に東京に師範学校が設けられ、アメリカ人教師スコットMarion McCarrell Scott(1843―1922)を招いて小学教授法を教えたのが最初であり、徐々に他の府県にも師範学校が広がった。そして86年に、初代文部大臣森有礼(ありのり)のもとで師範学校令が制定され、順良、信愛、威重(いちょう)の3気質を目標とする師範学校教育の輪郭がほぼ整備された。その後1907年(明治40)に、それまでの高等小学校修了者を入学させる本科一部(4年制)のほかに、中学校・高等女学校の卒業者を入学させる本科二部(1年制)が設けられ、31年(昭和6)にこれが2年に延長され、一部・二部併置を原則とすることに改められた。さらに43年には専門学校と同程度の教育機関となり、府県立から官立に改められた。また、1935年に青年学校教員養成所が設けられた(1940年に青年師範学校と改称)。
[津布楽喜代治]
日本も含めて、前述の諸国の師範学校には共通の特徴がみられる。教育組織面では、(1)初等学校修了を入学資格とする中等学校レベルの教育機関、(2)無月謝・給費制とその代償措置としての服務義務制(卒業後一定年限、管内の初等学校に奉職する義務)、(3)全員入寮の寄宿舎制(舎監の厳しい監督のもとで形式と規則が支配し没個性化・画一化を助長)などである。日本では、前述の師範学校令のもとで、これらのことがすでに定められていた。教育内容面では、(1)将来教える教科内容への精通、(2)その教科の教授法と生徒管理法、(3)これらを実際に訓練する教育実習に力点が置かれた。以上のことを整理してみると、師範学校の基本的性格は次のように描くことができる。
〔1〕目的の単一性 師範学校は教員養成を唯一の目的とする学校であり、しかも、もっぱら初等教員を養成するというきわめて限定された目的学校であった。日本でも、師範学校の目的は「小学校教員ヲ養成センカ為(ため)ニ」(1880年改正教育令33条)と明定されていた。
〔2〕閉鎖制 師範学校は初等学校修了者を入学させ、比較的短期の養成を施して初等学校の教員として送り出したのであり、初等教育系統の学校であった。日本でも、すでに「学制」(1872)において、一般学校体系から分離して特設する方針がとられていた。
〔3〕教授技術と使命感 師範学校では、初等教科の教授法と初等教育に献身する使命感が強調され、涵養(かんよう)された。
以上の目的の単一性や人物養成に支えられた優れた教授技術と教職への強い使命感が師範学校教育の核心をなしていたといえる。
[津布楽喜代治]
師範学校は1949年(昭和24)から国立の教育大学・学部等に改編され、50年ごろその幕を閉じた。それから約半世紀を経て、国立大学の独立行政法人化等の改革のなかで、教育大学・学部は大きな問題に直面している。教育大学・学部の再編統合が計画されているが、地域の国民普通教育の発展を推進してきた師範学校教育の伝統をどのように継承発展させていくかが改めて検討課題とされよう。「教えるプロとしての教師の育成」(文部科学省「21世紀教育新生プラン」2001年)を目ざすとき、前述のような師範学校教育の特色、すなわち優れた教授技術と教職への強い使命感に支えられた専門性の教育は参考になるであろう。
[津布楽喜代治]
『唐澤富太郎著『教師の歴史』(1955・創文社)』▽『中島太郎編『教員養成の研究』(1961・第一法規出版)』▽『中内敏夫・川合章編『教員養成の歴史と構造』(1974・明治図書出版)』▽『篠田弘・手塚武彦編『学校の歴史第5巻 教員養成の歴史』(1979・第一法規出版)』▽『水原克敏著『近代日本教員養成史研究――教育者精神主義の確立過程』(1990・風間書房)』▽『三好信浩著『日本師範教育史の構造――地域実態史からの解析』(1991・東洋館出版社)』▽『影山昇著『日本の教育の歩み――現代に生きる教師像を求めて』増補版(1995・有斐閣)』▽『浦野東洋一・羽田貴史編『変動期の教員養成――日本教育学会課題研究「子ども人口減少期における教員養成及び教育学部問題」報告書』(1998・同時代社)』▽『山田浩之著『教師の歴史社会学――戦前における中等教員の階層構造』(2002・晃洋書房)』
明治初期から第2次大戦後の教育改革まで存続した小学校教員養成機関。フランスのエコール・ノルマルécole normaleに由来する。1872年(明治5)東京に師範学校(後の高等師範学校)が設置され,同校にアメリカ人M.M.スコットを教師として招き,アメリカの教授法を導入した。翌73年大阪,宮城,74年広島,長崎,新潟そして東京に女子の各官立師範学校が設置された。各府県には講習所,養成所などの速成養成機関が設置されたが,75年前後から漸次府県立の師範学校として再編統合され,東京の男女両師範学校を除く官立師範学校をも吸収,81年師範学校教則大綱,83年府県立師範学校通則によって本格的な小学校教員養成機関として整備された。86年師範学校令を制定,師範学校を高等,尋常に二分し,各府県に小学校教員養成のための尋常師範学校(年齢17歳以上,修業年限4年)を確立。順良,信愛,威重の3気質を目標とした画一的な教育内容や兵式体操の導入,学資支給制,卒業後の服務義務の制,全寮寄宿制による生活規制などにより,独特な人物重視の教育を実施することとなった。
97年師範教育令の制定により,尋常師範学校は師範学校と呼ばれるようになり,1府県1師範学校の制も廃止され,第二師範学校や女子師範学校の設置が促された。1907年師範学校規程の制定,10年師範学校教授要目の制定により,教育内容はいっそう細目にわたって規制された。師範学校規程によって本科第二部を新設,中等学校卒業者に1年(1931年に2年に延長)の教職教育を行い,5年制となった本科第一部と併置された。第二部の制度が基礎となって,教育審議会答申に基づき,43年戦時下に公立から官立に移管,専門学校程度の3年制の教育機関に昇格したが,同時に教科書は国定制に改められた。第2次大戦後の教育改革に際し,49年の国立学校設置法によって,多くの場合師範学校と青年師範学校(青年学校教員養成所を母体として1944年設置)を併合して,主として小学校と中学校の教員を養成する学芸大学または学芸学部・教育学部に再編された。
→教師
執筆者:山田 昇
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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1872年(明治5)文部省は東京に師範学校(のち東京高等師範学校,筑波大学の前身)を設置,大阪・仙台・名古屋などの都市にも官立師範学校が増設される一方,74年には東京女子師範学校(現,お茶の水女子大学)が設立された。1877年官立を東京・東京女子の2校に限り,教員養成は地方の公立校に委ねる方策が採用され,80年の第2次教育令により私立の設置は実際上禁止された。1886年師範学校令が公布され師範学校は高等と尋常の二つに分けられ,高等師範学校は文部大臣の管理に属して東京に1ヵ所,尋常師範学校は府県に各1ヵ所設置し,地方税でその経費を支弁するものとした。1897年,師範教育令が公布され,学齢児童数に基づいて師範学校の生徒定員が算出されることとなり,正教員の需要増から師範学校は急速に拡大した。1943年(昭和18)師範教育令を改正,師範学校は従来の府県立から官立に移管され,さらに翌44年青年師範学校が別に設置された。戦後改革によりすべて制度上廃止され,新制の大学・学部などへ引き継がれた。
著者: 橋本鉱市
出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報
第2次大戦前の教員養成機関の総称。狭義には初等教育学校の教員を養成する学校の呼称。1872年(明治5)の学制公布により,東京に師範学校がおかれ,翌年以降大阪・仙台・名古屋など各大学区に官立師範学校,東京に女子師範学校が設置された。各府県でも小学講習所・教科伝習所を設置し,師範学校と呼称。86年の師範学校令により,小学校教員養成の尋常師範学校は各府県に1校ずつ,師範・中等学校教員養成の高等師範学校は東京に1校のみとされた。学費の公費支給,一定期間の教職従事義務があった。寄宿舎制による人間教育,画一的教育内容,兵式体操の導入など,師範教育の基礎が築かれた。97年の師範教育令で尋常師範学校は師範学校と改称,府県に複数の設置が認められ,以後師範学校・高等師範学校が増設された。第2次大戦後の1947年(昭和22)学校教育法の施行により国立大学に改編された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…1872年(明治5),〈学制〉公布により近代的学校制度が整えられようとしたとき,前代の師匠像を受けつぎながら,公教育の教師への脱皮をはかろうとした。73年師範学校(東京)の定めた〈小学教師心得〉では,教師は学問を教えるだけでなく,日常の飲食起居にいたるまで教導すべきだとし,〈生徒ノ中学術進歩セス或ハ平日不行状ノ徒アラハ教師タル者ノ越度タル可シ〉といって,生徒の模範となることをきびしく求めていた。ついで自由民権運動抑圧をめざす教育行政のすすめられるなかで,81年文部省の出した〈小学校教員心得〉は,冒頭で小学校教員の良否は普通教育の弛張,さらには国家の隆替にかかわるので〈其任タル重且大ナリト謂フヘシ〉とし,尊王愛国の士気を奮い起こさせることが教師の何よりの任務であると規定したうえで,学校内外における心得をこまごまと記し,教師の言動を規制した。…
…明治初年に英語教師として来日し,日本最初の師範学校で欧米式の公教育教授を初めて指導したアメリカ人教師。日本近代教育方法史上の開拓者とされる。…
…通常,教員養成を主とする教育大学教育学部(第2次大戦前の師範学校)に付設され,教育の実験的研究を行うとともに学生の教育実習の場を提供する学校。J.F.ヘルバルトの実習学校やデューイの実験室学校に通ずる。…
※「師範学校」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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