深沢新田村(読み)ふかさわしんでんむら

日本歴史地名大系 「深沢新田村」の解説

深沢新田村
ふかさわしんでんむら

[現在地名]中野市甲 深沢

北に赤岩あかいわこしの両村、東に夜間瀬よませ宇木うき、南面に夜間瀬川の浸食による断崖を控えた高社こうしや山南麓に位置している。

この地に着目して新田開発をもくろんだのは押切おしきり村(現上高井郡小布施おぶせ町)の百姓塩野谷六左衛門らであった。当時幕府領の押切村は連年千曲川の氾濫に悩まされた。明暦二年(一六五六)二月、六左衛門らが江戸奉行所の内諾を得て開発に踏み切った。用水堰(深川堰)は夜間瀬村須賀川すがかわ地区のたる川より取水し、延々三里、山腹をめぐり引くこととなり、樽川水系の飯山領木島平きじまだいら一四ヵ村の強い反対に遭遇した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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