日本歴史地名大系 「中野市」の解説 中野市なかのし 面積:七七・八九平方キロ北方に高井富士とよばれる高社(こうしや)山(一三五一・五メートル)がそびえ、東は筥(はこ)山から始まる低い山陵が南に延び、志賀(しが)高原から流れてくる夜間瀬(よませ)川の形成する扇状地帯で、緩やかな傾斜地をなし、西に高丘(たかおか)台地・長丘(ながおか)丘陵が連なり、南方は千曲川を挟んで善光寺平(ぜんこうじだいら)に連なる延徳平(えんとくだいら)が開けている。中野郷の地名は平安時代末の嘉応二年(一一七〇)二月の平家某下文に「中野郷公文定使所」とあるのを初見とする(市河文書)。〔原始〕先土器・縄文時代の遺跡は、高社山西面山麓の田上(たがみ)村周辺、長丘丘陵と高丘台地、東部筥山続き山陵の麓に多い。弥生時代の遺跡は高丘台地の栗林(くりばやし)遺跡(県史跡)の周辺、延徳平周縁、夜間瀬川扇状地末端地域、土師器・須恵器はこれら弥生遺跡と重なり、特に高丘台地の安源(あんげん)寺遺跡は注目される。古墳時代に入ると、南部の金鎧山(きんがいざん)古墳・蟹沢(かにさわ)古墳、長丘丘陵の古墳群のうち七瀬双子塚(ななせふたごづか)は著名である。なお高丘台地には古代の窯跡が発見されている。〔古代〕「和名抄」流布本にみえる高井郡五郷のうちの日野(ひむの)郷は新野(しんの)村を中心として南部地方に発展した郷と推定される。また「延喜式」神名帳に載っている笠原(かさはら)神社・高杜(たかもり)神社は高社山麓寄りにあり、「今昔物語集」には東部の山麓の如法寺がみえる。古代の東山道より分れて越へ通ずる千曲川東谷筋(ひがしたにすじ)道は腰巻(こしまき)(もと部木田(へきだ)郷)で渡河している。中世の「吾妻鏡」に中野牧・笠原牧があらわれる。両牧ともに古代末期には設けられた勅使牧である。殊に笠原牧は文治二年(一一八六)三月には左馬寮領として笠原南条・同北条にわかれ、その広大な規模がうかがわれ、牧司笠原氏の土着が知られる。また中野牧は尾藤氏の支配する所であったが、中野郷の成立とともに御牧の姿が不明となっている。〔中世〕鎌倉時代には中野郷には中野氏が栄え、高社山麓には笠原氏の一族が余喘を保っていた(「笠原信親証文目録」斉民要術紙背文書)。 中野市なかのし 2005年4月1日:中野市と下水内郡豊田村が合併⇒【中野市】長野県⇒【豊田村】長野県:下水内郡 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中野市」の意味・わかりやすい解説 中野〔市〕なかの 長野県北東部,長野盆地北東部にある市。千曲川流域と支流の夜間瀬川扇状地一帯を占める。 1954年中野町と日野村,延徳村,平野村,高丘村,長丘村,平岡村,科野 (しなの) 村,倭 (やまと) 村の8村が合体し市制。 2005年豊田村と合体。中心市街地は扇頂部にある谷口集落で,中世から千曲川右岸と志賀高原や群馬県の草津温泉方面を結ぶ交通の要地。江戸時代は幕府の直轄領。明治初期には一時,中野県庁が置かれた。木工業,プラスチック,精密機器などの中小工場が立地。農村部では米作や果樹栽培が行なわれ,エノキダケも生産される。行李,手さげかごは伝統工芸品として知られる。北西部にある斑尾山の斜面には別荘地やスキー場がある。十三崖のチョウゲンボウ繁殖地は国の天然記念物。 JR飯山線,長野電鉄長野線,国道 117号線,292号線,403号線が通り,上信越自動車道のインターチェンジがある。面積 112.18km2。人口 4万2338(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by