漢城旬報(読み)かんじょうじゅんぽう

改訂新版 世界大百科事典 「漢城旬報」の意味・わかりやすい解説

漢城旬報 (かんじょうじゅんぽう)

1883年10月31日に創刊された朝鮮最初の近代的新聞。1882年9月に修信使副史(正使朴泳孝)として訪日した金晩植が外衙門同文学の協弁となり,その管轄下の博文局で発行。純漢文による18ページ内外の冊子で,国内記事(官報および利報),各国近事,物価変動,解説記事,論説などの内容からなり,84年12月の甲申政変まで40号を重ねた。この新聞発行に福沢諭吉は,井上角五郎を派遣して編集を,職工三輪広蔵,真田謙蔵を派遣して印刷を,それぞれ指導させた。旬報は世界の動向や論説を通じて知識層に開化思想を普及させるうえで大きな役割を果たした。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の漢城旬報の言及

【井上角五郎】より

…号は閔泳翊(びんえいよく)から贈られた琢園。1882年慶応義塾卒業後,83年福沢諭吉の指示で朝鮮政府の外衙門顧問,博文局主任となり,同年10月,朝鮮初の近代的な官報兼新聞《漢城旬報》(旬刊,漢文)を創刊。さらに姜瑋の協力を得て朝鮮語と漢字の混用文を創出し,86年1月創刊の《漢城周報》(週刊)にはじめて公式に用いた。…

【開化派】より

…朝鮮における開化風潮を盛りあげた画期は,1881年に金允植が領選使となって38名の留学生を天津機器局に派遣したことと,同年の朴定陽,洪英植,魚允中ら12名の朝士および随員を含めた計62名の紳士遊覧団の日本視察であった。福沢諭吉は開化派の要請にこたえて門下生井上角五郎を派遣して朝鮮で最初の近代的な官報兼新聞《漢城旬報》の創刊(1883.10)に協力させ,また朝鮮人留学生を慶応義塾に受け入れた。しかし開化派の近代化運動は守旧派の厚い壁を打ち破ることができず,悲劇的な失敗を重ねた。…

※「漢城旬報」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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