明治時代の啓蒙(けいもう)思想家、慶応義塾の創立者。天保(てんぽう)5年12月12日、大坂の中津(なかつ)藩蔵屋敷で、13石二人扶持(ぶち)の藩士福沢百助(ひゃくすけ)とお順(じゅん)との間に次男として生まれる。2歳のとき父と死別、母子一家は中津(大分県中津市)へ帰る。母の手一つで育てられたが、彼もまた母をよく助けたという。1854年(安政1)長崎に蘭学(らんがく)修業に出、翌1855年大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)塾に入門。1856年兄三之助が病死し福沢家を継ぐが、洪庵塾に戻り、1858年藩命で江戸中津藩屋敷に蘭学塾を開くことになった。これが後の慶応義塾に発展する。1859年横浜に遊び蘭学の無力を痛感、英学に転向。翌1860年(万延1)咸臨丸(かんりんまる)に艦長の従僕として乗り込み渡米、1862年(文久2)には幕府遣欧使節団の探索方として仏英蘭独露葡6か国を歴訪、1864年(元治1)に幕臣となる。1866年(慶応2)これら洋行経験をもとに『西洋事情初編』を書き刊行、欧米諸国の歴史・制度の優れた紹介書として洛陽(らくよう)の紙価を高める。1867年幕府遣米使節に随従するが、その際かってに大量の書物を買い込んだかどで、帰国後3か月の謹慎処分を受ける。
1868年(明治1)4月、これまでの家塾を改革し慶応義塾と称し、「商工農士の差別なく」洋学に志す者の学習の場とする。上野戦争のさなかに経済学の講義をしていたエピソードは有名。この年(1868)8月幕臣を辞し、中津藩の扶持も返上、明治政府からのたびたびの出仕要請も断る。1871年の廃藩置県を歓迎し、国民に何をなすべきかを説く『学問のすゝめ初編』(1872年刊行)を書き、冒頭に「天は人の上に人を造(つく)らず人の下に人を造らずと云(い)へり」という有名な人間平等宣言を記すとともに、西洋文明を学ぶことによって「一身独立、一国独立」すべきだと説いた。この書は当時の人々に歓迎され、第17編(1876)まで書き続けられ、総発行部数340万といわれるベストセラーとなった。ここに啓蒙思想家としての地位を確立した。1873年、当代一流の洋学者たちの結集した明六社(めいろくしゃ)に参加、『明六雑誌』などを舞台に文明開化の啓蒙活動を展開。また演説の重要性を指摘し、明六社や義塾で演説会を催した。1874年母死去。翌1875年『文明論之概略』を刊行、日本文明の停滞性を権力の偏重にあるとし、西洋文明を目的とし自由な交流と競合こそが日本を文明国にすると説いた。本書は日本最初の文明論の傑作であり、西洋文明を相対化する視点も示した。
そのほか、雑誌『民間雑誌』『家庭叢談(そうだん)』などを刊行して民衆啓蒙に努めるが、しだいにその情熱を失い、1881年の『時事小言』では「天然の自由民権論は正道にして、人為の国権論は権道なり、我輩(わがはい)は権道に従ふ者なり」と宣言し、1885年には「脱亜論」を発表、「亜細亜(アジア)東方の悪友を謝絶する」というに至る。朝鮮の開明派金玉均(きんぎょくきん)らの亡命を保護したりしたが、基本的にはアジア諸国を犠牲にしても日本が欧米列強に伍(ご)していく道を選ぶのである。その間、東京府会議員(1878)、東京学士会院初代会長(1879)、名望家のサロン交詢社(こうじゅんしゃ)の結成(1880)、そして1882年には新聞『時事新報』の創刊に携わる。日清(にっしん)戦争に際しては、文明と野蛮の戦争と断じ、献金運動に奔走。勝利には感涙にむせんだという。晩年には『福翁百話』『福翁自伝』『女大学評論・新女大学』などを著述。明治34年2月3日、脳溢血(のういっけつ)で死去。常光寺(東京都品川区上大崎1丁目)に葬られた。法名大観独立自尊居士。
自由主義者、民主主義者、合理主義者、女性解放論者などの高い評価と、西洋崇拝、政府への妥協、一般民衆への非情、権道主義への転向を批判する考えと、その評価はさまざまである。
[広田昌希]
『『福沢諭吉全集』全21巻(1958~1964/1969~1971・岩波書店)』▽『『福沢諭吉選集』全14巻(1980~1981・岩波書店)』▽『鹿野政直著『福沢諭吉』(1967・清水書院)』▽『遠山茂樹著『福沢諭吉』(1970・東京大学出版会)』▽『ひろたまさき著『福沢諭吉』(1976・朝日新聞社)』▽『小泉信三著『福沢諭吉』(岩波新書)』
明治の思想家,教育者。豊前中津藩の蔵屋敷で廻米方を勤める百助の次男として大坂に生まれる。数え年3歳で父を失い中津に帰る。学識豊かな教養人でありながら軽格のため不遇に終わった父の生涯,中津における一家の孤立,下士の生活の惨めさは彼のうちに早くから〈封建門閥〉への強い不満をはぐくむ。1854年(安政1)長崎に出て蘭学を学び,翌年には緒方洪庵の塾に入る。58年藩命によって江戸出府,中津藩下屋敷に蘭学塾を開く。60年(万延1)最初の幕府使節のアメリカ派遣に際し,軍艦奉行木村摂津守の従者となって渡米,以後61-62年(文久1-2)のヨーロッパ6ヵ国派遣使節,67年(慶応3)の遣米使節の一員として3回にわたり西欧の文化をその母国において摂し,〈封建門閥〉の重圧の下で実力をのばす機会を模索していた彼は〈変革〉,開国と〈富国強兵〉への構想をはぐくみはじめる。幕末・明治初年のベストセラーとなって日本社会の上下に大きな影響を与えた《西洋事情》(1866-69)は,この文化接触の経験にもとづいて著された。
最初のアメリカ行から帰った年に福沢は幕府外国方に雇われ,1864年(元治1)に召し出されて幕臣となった。幕府内外の情勢,とくに西洋列強の動向からして,初め〈大名連邦〉による事態の打開を考えたが,やがて〈変革〉の目標を〈大君のモナルキ〉,すなわち徳川将軍の絶対主義支配の下での統一国家に求めた。しかし幕府にすでにその実力がないことを知り,他方,尊攘倒幕派を盲目的な排外運動としかみることができなかった彼は,日本の将来を悲観し,68年6月幕府に御暇願を出した。4月には慶応義塾(のちの慶応義塾大学)と正式に名のった私塾によって文明の火種を伝えることに踏み切り,明治新政府への出仕の召しにも応じなかった。71-72年(明治4-5)ころ新政府が意外にも盲目的攘夷とは逆の政策をとっていることを知り,《学問のすゝめ》17編(1872-76)のシリーズを刊行して,天賦の個人の独立・自由・平等を基礎に下から国民国家を形成し,そのような国民国家が〈天理人道〉と〈万国公法〉の下に独立と平等の関係で交わる国際社会を構想した。《学問のすゝめ》は,そのシリーズを中断して著された《文明論之概略》(1875)や《西洋事情》とともに福沢の名を世に高めた。また73年には森有礼,西周(にしあまね),加藤弘之ら当時第一級の洋学者とともに明六社を組織し,79年には東京学士会院の初代会長に選ばれた。
福沢は新政府の開明性に終始大きな期待をかけ,1880年には伊藤博文,井上馨,大隈重信から求められた政府機関紙発行への参加に同意したが,翌年の政変(明治14年の政変)によって裏切られ,新聞による世論形成の念願は82年の《時事新報》創刊として結実し,以後彼の力は同紙と慶応義塾とに集中される。この間,《文明論之概略》執筆のころから,国際環境における権力政治の重圧と読書思索を通じて日本の近代化についての彼の構想は徐々に変化していった。その帰結を示すのが,〈内安外競〉〈脱亜入欧〉〈官民調和〉という一連のスローガンである。《学問のすゝめ》に示された思想構造と違って,国際関係についての見方と国内政治についての見方が分裂し,前者が優先する傾向がこれ以降の彼の思想構造の中にしだいに強まっていく。国際関係における国際法や西欧国家体系への幻滅から,そこに支配するのは力のみという権力政治観に移行する。西洋列強の東アジア進出に対しても,一方では朝鮮や中国の近代国家への変革に期待し,これらの国の独立を防壁として日本の独立を確保する道を模索していたが,84年甲申政変によってかねて支援してきた朝鮮開化派が敗北すると翌年〈脱亜論〉(《時事新報》3月)を著し,日清戦争に際しては軍事的介入による朝鮮の〈文明〉化を説き,戦後には列強の中国分割への割込みを唱えるにいたる。このように熾烈(しれつ)な権力政治において富国強兵を競うために国内の政治的安定を,という目的手段の関係を示すのが〈内安外競〉であり,〈内安〉の中心をなすのが政府と民権運動およびその後身である民党との協調,すなわち〈官民調和〉である。福沢は民権運動の高揚に直面して国会開設を積極的に主張するにいたり,〈内安外競〉〈官民調和〉の構想を打ち出した《時事小言》(1881)およびその前後の一連の著作では,立憲制とイギリス流の議院内閣制・政党内閣制によって〈官民調和〉を実現するという原理が明確に展開される。しかし彼は明治政府の開明性に過大な期待をかけ,実学教育を受けた士族による産業化と政治への影響力の発展を楽観視した反面,民権運動・民党の大衆的基礎や統治能力を正当に認識できなかった。その結果,初期議会における寡頭制政府と民党との抗争激化に直面して,彼の論評は,責任内閣論にもとづく原理的な論評より民党操作の戦術論に傾き,日清戦争中の城内平和の提唱にいたった。こうして彼は《福翁自伝》(1897)に日清戦争の勝利を目のあたりにした満足感を表しているが,これに前後する《福翁百話》(1897)その他の文章には,日本における資本主義や議会政治の前途についての不安がもらされていることも見逃せない。
執筆者:松沢 弘陽 福沢はまた日本の保険事業の歴史上大きな貢献をした。欧米各国を巡歴して得た知識をもとに,帰国後1867年に出版した《西欧旅案内》の中に〈災難請合の事〉の章があり,〈人の生涯を請合う事〉〈火災請合〉〈海上請合〉として欧米の生命・火災・海上保険事業を紹介した。さらに80年に著した《民間経済録》の中で〈第2章保険の事〉と題して保険の解説を行うなど,保険の紹介,知識普及に大きな役割を果たした。
執筆者:松田 喜義
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(村井実)
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豊前中津藩士の家に生まれ,長崎で蘭学を学び,大坂で緒方洪庵の適塾に入門。1858年(安政5)藩命により江戸に蘭学塾(のちの慶應義塾)を開設。英学を独学し,1860年(万延1)咸臨丸で渡米。幕府遣外使節に随行し,欧米を視察して著した西洋文明の紹介書『西洋事情』は広く読まれた。幕府の翻訳方を務めるも,明治維新後は官職を固辞し,在野で人材育成と国民の啓蒙活動に専心する。1868年(明治1)英学教授に転換した塾を独立させ,慶應義塾(慶應義塾大学の前身)と命名。日本で初めて授業料制を導入した。上野戦争の際も講義を続け,随一の英学校として名を馳せ,初期の門下生は教師として活躍し,後年実業家を輩出した。知的側面の開発をとくに重視し,「天は人の上に人を造らず」に始まる『学問のすゝめ』では,封建制度を打破し,国民各自が実学を志して独立自尊を図ることが一国の独立になると説き,時の教育政策に採用されベストセラーになる。明六社の同人,新聞『時事新報』の創刊など文明開化に多大な貢献をし,女子教育や家庭教育の重要性も主張した。しかし,その自由主義,民主主義への評価が高い一方,政治への妥協や天皇制に対する見解では評価が分かれる。
著者: 杉谷祐美子
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1834.12.12~1901.2.3
幕末~明治期の啓蒙思想家・教育者。豊前国中津藩の大坂蔵屋敷で生まれ,幼時に中津に帰る。長崎遊学,大坂の適々斎塾に学び,1858年(安政5)江戸築地鉄砲洲の中津藩中屋敷内で蘭学塾を開く。60年幕府使節に随行し渡米。翌年から1年間ヨーロッパを歴訪。64年(元治元)幕臣・外国奉行翻訳方となる。66年(慶応2)「西洋事情」刊行。68年(慶応4=明治元)塾を慶応義塾と改称。「学問のすゝめ」以降,啓蒙書をあいついで刊行,明六社でも活躍。74年から三田演説会を開き,都市の民権運動を主導。82年「時事新報」を創刊し,皇室論・女性論・アジア政略論を展開した。「福沢諭吉全集」全21巻・別巻1。
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…なお独立宣言は,アメリカ人宣教師E.C.ブリッジマンが中国で書いたアメリカについての概説書《聯邦志略》(1846。同書は《海国図志》にも収録)を通じて幕末の日本に紹介され,さらに福沢諭吉により〈独立の檄文〉と題して《西洋事情》初編(1866)に訳出された。アメリカ独立宣言の精神は,福沢の〈天は人の上に人をつくらず,人の下に人をつくらず〉(《学問のすゝめ》)という表現などによってひろまり,明治期の自由主義思想の一つのよりどころになった。…
…ドイツではゴットシェートがライプチヒに演説学校を設立したが,19世紀にはフィヒテ(〈ドイツ国民に告ぐ〉),ラサール,ビスマルクらが傑出している。 日本で,英語のスピーチspeechを訳して演説という字をあてたのは福沢諭吉であるといわれる。初めは〈演舌〉という字をあてたが,舌の字が俗なため,改めて演説としたという。…
…豊前中津藩生れ。藩校進修館の塾長を務めたが,1864年(元治1)上京,同郷の福沢諭吉の門に英学を学び,66年福沢家塾塾頭,幕府開成学校英学助教となる。77年欧米漫遊,のち交詢社の結成,明治生命保険会社創立に尽くし,また立憲改進党結成に参画した。…
…これらは江戸時代には寺子屋で読本兼習字用教科書として,明治以降は女学校の修身教材として使われた。一方,西欧思想を取り入れて《女大学》を批判したものとして,土居光華《文明論女大学》(1876),福沢諭吉《女大学評論》《新女大学》(ともに1899)などがある。【中江 和恵】。…
…朝鮮における開化風潮を盛りあげた画期は,1881年に金允植が領選使となって38名の留学生を天津機器局に派遣したことと,同年の朴定陽,洪英植,魚允中ら12名の朝士および随員を含めた計62名の紳士遊覧団の日本視察であった。福沢諭吉は開化派の要請にこたえて門下生井上角五郎を派遣して朝鮮で最初の近代的な官報兼新聞《漢城旬報》の創刊(1883.10)に協力させ,また朝鮮人留学生を慶応義塾に受け入れた。しかし開化派の近代化運動は守旧派の厚い壁を打ち破ることができず,悲劇的な失敗を重ねた。…
…北海道でも函館の豪商はこの払下げに対抗して開拓使の官船・倉庫の払下げを出願し,函館区民の請願・建白運動がおこった。払下反対運動のかげに国会早期開設を唱える筆頭参議大隈重信と岩崎弥太郎(三菱),福沢諭吉の共謀援助があるという説が流布され信ぜられた。政府は10月12日払下げの中止とともに国会開設の詔勅を発し,あわせて大隈重信とその系統の官僚を免職にした。…
…福沢諭吉の主著の一つ。1872年(明治5)より76年までに17の独立の小冊子として刊行され,80年に合本となる。…
…純漢文による18ページ内外の冊子で,国内記事(官報および利報),各国近事,物価変動,解説記事,論説などの内容からなり,84年12月の甲申政変まで40号を重ねた。この新聞発行に福沢諭吉は,井上角五郎を派遣して編集を,職工三輪広蔵,真田謙蔵を派遣して印刷を,それぞれ指導させた。旬報は世界の動向や論説を通じて知識層に開化思想を普及させるうえで大きな役割を果たした。…
…《太政官日誌》は77年1月まで続き1177号で中止。その後80年,《法令公布日誌》を創刊し事業を福沢諭吉に委託する案が作られたが,開拓使官有物払下事件をめぐる閣内対立のあおりを受けて立ち消えとなり,次いで82年3月あらためて山県有朋が官報刊行を建議,これが翌年実現して創刊となった。現在,《官報》本紙のほかに,解説を目的にした《官報資料版》がある。…
…【川北 稔】
[日本]
日本では,1872年(明治5)実業家西村勝三らが,ヨーロッパのクラブを範として,東京築地に建設した〈ナショナルクラブ〉が最初であろう。76年には福沢諭吉がクラブの性質をもった集会所を建てた。その趣意文〈万来舎之記〉には,〈今度,当邸内に於て,一棟の集会所を建設せり,之を万来舎と云ふ。…
…東京都港区三田にある私立大学。1858年(安政5)福沢諭吉が中津藩の命により築地鉄砲洲に開設した蘭学塾を起源とする。62年(文久2)福沢訪欧後,これが英学塾に改められ江戸有数の家塾となった。…
…江戸時代の山東京伝や曲亭馬琴らが稿料をもらった記録はあるが,1編いくらで原稿料とはいえなかった。文明開化の時代に福沢諭吉は非合理な印税のため出版屋を嫌い,みずから出版者となり《学問のすゝめ》などを出版,その利益と印税で慶応大学を創立した。1900年代になると森鷗外や夏目漱石らの実力ある作家は,出版者と交渉して,原稿料・印税の慣行をつくった。…
…1880年1月創立の社交クラブ。前年9月福沢諭吉,小幡篤次郎,矢野文雄(竜渓),馬場辰猪ら31名が会合して創設を決定したもの。中心メンバーは福沢(常議員会長),小幡(幹事)以下の慶応義塾関係者で,〈知識を交換し世務を諮詢する〉ことを目的にかかげた。…
… 人造氷は,83年に東京製氷会社,99年に機械製氷会社が設立され,ことに後者が本所業平橋(なりひらばし)の工場で日産50tを生産するに及んで普及し始めたが,実験的な人工製氷はすでに1870年に行われていた。その年5月,福沢諭吉は発疹チフスにかかり連日高熱が続いていた。福沢の周囲はしきりに氷を求めたが,当時の東京では手に入らず困っていた。…
…1882年3月慶応義塾出版社(本社東京)から創刊された日刊紙。福沢諭吉の指導の下,中上川(なかみがわ)彦次郎を社主とし,福沢の門下生を主要スタッフとして創刊された。当初福沢は大隈重信,伊藤博文,井上馨らの勧めをうけて,政府系新聞を発行しようとしていたが,明治14年の政変の結果独自の新聞を発行するにいたったといわれる。…
…この考え方は1872年(明治5)の〈学制〉の指導理念となった。代表的な実学者としては,西周(あまね),津田真道(まみち),加藤弘之,神田孝平,福沢諭吉,箕作麟祥(りんしよう)らが数えられる。西周は健康,知識,富有の三つを人生の宝とし,市民社会的倫理を基盤とする実学を主張,津田真道は朱子学的なリゴリズムからの人間性の解放を唱え,情欲を人間性の基本とするが,知識と慣習による情欲こそ開化人特有の情欲であり,天理と人欲は相反するものでないと考えた。…
…江戸時代の幕府の直轄学校および各藩の藩校の教育は,国家あるいは藩のためのものと考えられ,教育を受ける個人から授業料を徴収することはなかった。福沢諭吉はこれを沿襲の弊とし,〈身を立るの財本〉すなわち〈国民の私の教育〉の性格を強調して,授業料の支払を積極的に意義づけた。そこには,授業料の支払によってだれもが教育の機会を得られるようになるとの把握があり,身分的特権的な教育制度を打破し,近代的な教育制度をうちたてようとの主張が表明されていた。…
…なお西郷の死に対する民衆の同情と共感は,いわゆる〈西郷伝説〉として尾を引く。また福沢諭吉は西南戦争直後の1877年10月に,西郷弁護の《明治十年丁丑公論》(公表1901)を執筆した。士族反乱征韓論【田中 彰】。…
…福沢諭吉が著した西洋文明と欧米5ヵ国の紹介書。〈初編〉1866年(慶応2),〈外編〉68年(明治1),〈二編〉70年刊。…
…福沢諭吉が書いた1885年3月16日の《時事新報》社説。最近この論文ないし題名を基として,脱亜主義(脱亜論)をアジア主義(興亜論)に対置し,両者を近代日本の対外論を貫く二つの主要な潮流もしくは傾向ととらえようとする見方が広がってきている。…
…しかし自由民権運動の高揚に脅威を感じた政府は,まず79年,天皇の名による〈教学聖旨〉を出し,洋風を競い智識才芸の〈末〉にはしり,仁義忠孝の道徳という〈本〉がおろそかにされていることを批判し,孔子の教えの尊重を提唱した。これは儒教による道徳教育の復活であり,洋学導入・一身独立の必要を強調しつづけていた福沢諭吉はこの動向を強く批判した。教学聖旨が下されるや,文部省は翌80年には,市民道徳を説いた書物などの教科書としての使用禁止を命じ,同年公布の改正教育令では,道徳教育を内容とする修身科を小学校の全教科の先頭にすえてその重視の方針を示し,ついで翌81年には〈小学校教員心得〉を出し,教員は子どもに知識を多くあたえるよりも道徳教育にもっとも力を入れるべきだとの心得を説いた。…
…なお民間の文庫としては,2世板坂卜斎の浅草文庫,仙台藩士青柳文蔵の青柳文庫などが名高い。
[近代以降]
福沢諭吉は《西洋事情》で,西洋諸国の図書館,すなわち彼の表現によれば〈ビブリオテーキ〉の存在を紹介し,これが万人の利用に供されているさまに感服した。こうした刺激をうけて,1872年(明治5)政府は,旧昌平黌の地に書籍(しよじやく)館を設ける。…
…幕末の蘭医川本幸民(1810‐71)は訳書《化学新書》の中でビールの製法を正確に記載しており,同人が日本で初めてビールを試醸したと伝えられるが確かではない。福沢諭吉は1865年(慶応1)《西洋衣食住》の中で〈又ビイルという酒あり,是は麦酒にて,其味至って苦けれど胸襟を開くに妙なり〉と述べている。江戸時代末期から明治初期にかけて外国ビールが輸入されるとともに,各所で小規模なビール醸造が試みられたらしい。…
…福沢諭吉の自伝。1897年秋ころ,矢野由次郎に自伝を口述して筆記をとらせ,諭吉自身が加筆・補訂して,ほぼ1ヵ年で完結した。…
…彼らはこうした立場から儒教的な名分論や国学流の天皇中心主義を批判し,日本の文明化を推進しようとした。なかでも福沢諭吉は,西洋文明の〈精神〉と〈外形〉とを区別し,その精神――人民独立の気風と自然科学的実験的思考方法とを根本から摂取することによって,民衆の精神のあり方を根底から変革しようと試みた。彼にとって,これはそのまま日本の独立を達成するための唯一の方法でもあった。…
…1875年に刊行された福沢諭吉の主著。彼の著作のうち最も理論的組織的で緻密だが,それを生み出したのは福沢の危機意識であり,全編を通じ新しい精神の提唱が古いそれへの批判と織り合わされて,まれに見る現実感と説得力をもたらしている。…
…1859年から横浜で外国保険会社によって,火災保険や海上保険の引受けが外国人を対象に行われた(後には日本人も対象にするようになった)。一方,福沢諭吉は欧米の保険制度を日本に紹介した。《西洋事情》(1866)で〈火災請負ヒ,海上請負ヒ〉に言及し,さらに翌年の《西洋旅案内》ではその付録に〈災難請合ノ事イシュアランス〉の項を設けて,生命保険,火災保険,海上保険の別に欧米の保険制度を解説している。…
…そこで,理科教育といえばふつう初等・中等教育での自然科学の教育をさすが,〈理科は自然科学を教える教科でなく,自然そのものを教える教科だ〉といった議論も根強く,簡単ではない。日本の科学教育は,1872年の〈学制〉〈小学教則〉などによって国家的に制度化されたが,それは福沢諭吉ら洋学者たちの文明開化の思想を反映したものであった。福沢は,日本人から封建的な思想を排除するには近代科学の物質観,科学観の教育がもっとも大きな力になりうるとみていたのである。…
…朝鮮は1876年2月の日朝修好条規によって開国したが,新文物を吸収すべく81年5月には日本に紳士遊覧団62名を,12月には清国に領選使一行69名を派遣した。遊覧団の随員兪吉濬(ゆきつしゆん),柳定秀は福沢諭吉の慶応義塾に,尹致昊(いんちこう)は中村正直の同人社に残留し,最初の海外留学生となった。福沢と朝鮮との結びつきには,1879年秋日本に密航した開化僧李東仁が関与していた。…
※「福沢諭吉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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