井上角五郎(読み)いのうえかくごろう

改訂新版 世界大百科事典 「井上角五郎」の意味・わかりやすい解説

井上角五郎 (いのうえかくごろう)
生没年:1860-1938(万延1-昭和13)

政治家実業家。広島県出身。号は閔泳翊(びんえいよく)から贈られ,琢園という。1882年慶応義塾卒業後,83年福沢諭吉指示朝鮮政府の外衙門顧問,博文局主任となり,同年10月,朝鮮初の近代的な官報兼新聞《漢城旬報》(旬刊漢文)を創刊。さらに姜瑋の協力を得て朝鮮語と漢字の混用文を創出し,86年1月創刊の《漢城周報》(週刊)にはじめて公式に用いた。この間,84年の甲申政変にも関与し,金玉均らと一時日本に逃れている。後,京釜鉄道南満州鉄道の設立にもかかわった。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「井上角五郎」の意味・わかりやすい解説

井上角五郎【いのうえかくごろう】

政治家,実業家。広島県出身。1882年慶応義塾卒業後,福沢諭吉の指示で朝鮮に渡り,朝鮮初の近代的新聞《漢城旬報》の創刊に尽力,また朝鮮の開化派独立党)と密接な関係をもち,1884年の甲申政変に関与した。1887年帰国。1890年第1回衆議院議員選挙の補欠選挙で当選し,1920年の第14回総選挙まで連続当選。この間,室蘭日本製鋼所創業,多くの会社役員を務め,満鉄設立にもかかわるなど実業界でも活躍した。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「井上角五郎」の意味・わかりやすい解説

井上角五郎
いのうえかくごろう
(1860―1938)

政治家、実業家。広島県福山市出身。号は琢園(たくえん)。1882年(明治15)慶応義塾を卒業し、福沢諭吉の勧めで朝鮮政府の顧問となった。1883年10月に『漢城旬報』(旬刊、漢文)を、1886年1月に『漢城周報』(週刊)をそれぞれ創刊した。漢城とはソウル(京城、都(みやこ)の意)の正称。『旬報』は朝鮮における最初の近代的な官報兼新聞。『周報』では、姜瑋(きょうい)の協力を得て創出した朝鮮文字と漢字の混用文を初めて用いた。これ以後、朝漢混用文が普及した。また、1884年12月に起きた金玉均らの甲申(こうしん)政変にも関与した。帰国後は、1890年から衆議院議員を14期務め、北海道炭鉱鉄道専務、日本製鋼社長、日本ペイント会長を歴任した。そのほか、京釜(けいふ)鉄道、南満州鉄道の設立にもかかわった。

原田 環]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「井上角五郎」の解説

井上角五郎 いのうえ-かくごろう

1860-1938 明治-昭和時代前期の実業家,政治家。
万延元年10月18日生まれ。福沢諭吉のすすめで明治15年朝鮮政府顧問となり,16年「漢城旬報」の創刊に協力,17年の甲申(こうしん)事変に関与する。23年衆議院議員(当選14回)となり政友会,政友本党に所属。北海道炭礦(たんこう)鉄道専務,日本製鋼所会長などを歴任した。昭和13年9月23日死去。79歳。備後(びんご)(広島県)出身。慶応義塾卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

青天の霹靂

《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...

青天の霹靂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android