熊谷太田道
くまがやおおたみち
「風土記稿」では熊谷町の項に上野新田道、幡羅郡総説の項に金山道とみえ、新田往還・熊谷妻沼道などともよばれた。明治一〇年代の二万分一迅速測図には「自太田至熊谷道」と記され、県道太田―熊谷線にほぼ重なる。近世の経路は中山道熊谷宿から分れて北進し、肥塚村―柿沼村―下奈良村―西野村(現妻沼町)―上根村―弥藤五村を経て、妻沼村(以上現同上)から妻沼渡で利根川を渡り、上州太田町に至る。文化六年(一八〇九)の妻沼村名主新左衛門上申書(妻沼町誌)に「熊谷宿より、上州太田町、桐生・大間々辺えの脇往還に御座候」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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