桐生(読み)キリュウ

デジタル大辞泉 「桐生」の意味・読み・例文・類語

きりゅう〔きりふ〕【桐生】

群馬県南東部の市。古くからの絹織物産地で、特に帯地紋織御召を多く産する。平成17年(2005)6月新里村黒保根くろほね村を合併したが、両村は旧桐生市から飛び地となっている。人口12.2万(2010)。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「桐生」の意味・読み・例文・類語

きりゅうきりふ【桐生】

  1. 群馬県南東部、足尾山地の南西側のふもと、渡良瀬川の左岸にある地名。桐生氏の城下町から絹織物市場町となる。繊維工業のほか、機械工業も盛ん。大正一〇年(一九二一)市制。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「桐生」の意味・わかりやすい解説

桐生[市] (きりゅう)

群馬県東部の市。2005年6月旧桐生市が黒保根(くろほね)村と新里(にいさと)村を編入して成立した。間にみどり市を挟む飛び地合併となった。人口12万1704(2010)。

桐生市東部の旧市で,機業都市。1921年市制。人口11万5434(2000)。中心市街地は渡良瀬川北東岸の段丘上にあり,支流の桐生川の谷口集落である。南北朝の初期,桐生国綱が市街地北方の檜杓(ひしやく)山に桐生城を築いたが,城下の繁栄はみられなかった。近世初期には桐生天満宮の社前から南方へ桐生新町が計画的に造成され,17世紀初めには絹市が開かれて桐生織物の基礎が確立した。染色,洗浄に適した桐生川の水や,周辺の養蚕・製糸地帯をひかえ,北関東機業地域の中心地となり,明治・大正から昭和の初めにかけて著しく繁栄した。第2次世界大戦後の機業は停滞傾向にあるが,現在も織物工業が市の基幹産業となっている。紋織御召や帯地,交織の洋服地,合繊のマフラーやハンカチのほか,近年は婚礼衣装などのししゅうが盛んになってきた。昭和40年代から渡良瀬川の対岸に機械,輸送機器,電気機器,金属製品などの工場が進出し,とくに一般機械は市全体の工業出荷額の5割以上(1995)を占めるなど大きく発展している。JR両毛線,東武鉄道桐生線,上毛電鉄線,わたらせ渓谷鉄道線が通じる。
執筆者:

上野国東部の在郷町。鎌倉時代初期のころは,足利荘の領主足利俊綱の郎党桐生六郎の支配下にあった。1590年(天正18)徳川家康の関東入部のさい幕領に組み込まれ,代官支配地となった。91年から96年(慶長1)にかけて,代官大久保長安が桐生川の谷口集落である久方村と荒戸村の一部を割き,桐生領54ヵ村の親郷触元として計画的に町立てさせたのが,在郷町桐生の起こりとされている。当初は単に新町,のちに荒戸新町と称したが,いつのころからか桐生新町と公称されるようになったという。支配領主は幕府代官,館林藩徳川氏,旗本神尾氏と推移し,1779年(安永8)から出羽松山藩酒井氏に代わり維新期におよんだ。なお酒井領時代には,北西の山手に向けて町割りされた横町先に同藩飛領(山田・勢多2郡13ヵ村,5000石余)の陣屋が置かれた。桐生領一帯は,中世末から仁田山絹の生産で名が知られ,1605年からは同町天満宮境内で,節市としての絹市が開かれていた。その後46年(正保3)に,いわゆる御旗絹上納が金納化するにおよんで商品化が進み,17世紀末(貞享・元禄ころ)には江戸,京都との取引もはじまり,1722年(享保7)には三井越後屋の出店が設けられたほどであった。この間1658年(万治1)に西隣の大間々村に絹市が立てられ,一時桐生絹市の衰退を招いたものの,1731年には絹買仲間が結成され,全国市場と桐生機業地を結ぶ活動を活発に展開するようになった。当時の桐生絹はまだ平絹生産の段階にあったが,38年(元文3)の高機(たかばた)導入を機に,紗綾を主軸とする後染織物の生産が主流となり,74年に張屋仲間,97年(寛政9)に織屋仲間,小紋紺屋仲間が結成されるなど,生産工程の専業化が進み,19世紀初めには先染織物の隆盛期を迎えた。こうした絹織業の発展がそのまま戸口構造にも反映し,1657年(明暦3)に141戸にすぎなかった戸数が,1825年(文政8)には844戸(地家持248,借地34,借家554)に増大し,総人口も3554人(うち奉公人770)に達した。その後は新興足利織物との競合,天保の奢侈(しやし)禁止令,開港にともなう原料生糸の払底などにより,桐生機業は不振状態が続くが,周辺農村で絹織が休止状態になったといわれる36年(天保7)には,戸数が785戸に減少し,奉公人が89人も減ったほどであった。こうした慢性的不況のなかで,買次,質屋などの上層部と借家貧人層との対立も深まり,幕末期には数度にわたり張訴・直訴事件が発生した。しかしいずれも領主や買次商らの救米施金が功を奏し,68年(明治1)東上州打毀の際も,内部からの打毀はついに発生しなかった。なおこの間住民の階層分化が一段と進み,借地・借家層が増加し,72年には総戸数1103戸に達した。住民の職業構成は機織業480戸,職人164戸,商人103戸,飲食業192戸,その他154戸。在郷町としての桐生新町は,まさに農村機業都市に成長していたといえよう。
桐生織物
執筆者:

桐生市西部の北にある旧村。旧勢多郡所属。人口2753(2000)。赤城山の東斜面を占め,南東端を渡良瀬川が流れる。わたらせ渓谷鉄道線が通じる。村域の大半は山林で,林業のほか,古くから養蚕が行われていた。農業の中心は養豚など畜産で,キノコの生産もさかん。旧桐生市の商圏に属し,桐生,大間々への通勤者も多いが,人口減少が続いている。過疎地域に指定されている。

桐生市西部の南にある旧村。旧勢多郡所属。人口1万6111(2000)。赤城山の南東斜面を占め,旧前橋市と旧桐生市の中間に位置する。養豚など畜産が農業の中心で,野菜生産も盛ん。特にゴボウの産地として知られる。養蚕もなお行われている。また,溜池灌漑用の水源としてつくられた早川貯水池ではコイの養殖が行われる。近年,宅地開発が進み人口が増加している。赤城山腹には第2次大戦後入植した開拓地がある。中心集落の武井には奈良時代初期の築造といわれる武井廃寺塔跡(史)が,山上には塔婆石造三層塔(重要文化財)がある。上毛電鉄線が通じる。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「桐生」の意味・わかりやすい解説

桐生(市)(きりゅう)
きりゅう

群馬県東部にある機業都市。1921年(大正10)市制施行。1933年(昭和8)境野(さかいの)村、1937年広沢(ひろさわ)村、1954年(昭和29)梅田、相生(あいおい)の2村と川内(かわうち)村の一部、1955年毛里田(もりた)村の一部を編入。1959年にはついに県境を越えて栃木県足利(あしかが)郡菱(ひし)村を編入。2005年(平成17)勢多(せた)郡新里村(にいさとむら)、黒保根村(くろほね)をみどり市とはさんだ飛び地として編入。市街地は足尾(あしお)山地の南西麓(ろく)で渡良瀬(わたらせ)川に臨み、北東からの桐生川がこれに注ぎ、その谷口集落の様相を示している。交通が便利で、JR両毛(りょうもう)線、わたらせ渓谷鉄道、東武鉄道桐生線、上毛電気鉄道(じょうもうでんきてつどう)が通じ、国道50号、122号、353号も走り、バス網も発達している。

 産業の特色は絹織物製造工業で、織都にふさわしく絹織物の景気いかんが市民の全経済生活を支配する。その起源は古く、平安時代に布織物、室町時代に仁田山絹(にたやまぎぬ)を産して取引され、1590年(天正18)関東が徳川氏の領地になると、この地の支配者が桐生天満宮の社前から南に桐生新町(現在の商業地域)を建設して絹と絹織物を扱い、1646年(正保3)からは5、9の日を市日(いちび)とする絹市の六斎市(ろくさいいち)が開かれた(のち市日は3、7日に変更)。一方、絹織物は幕府の保護を受け、京都西陣(にしじん)の技術を導入、天保(てんぽう)年間(1830~1844)には分業化して、機屋(はたや)が生まれ、賃織(ちんおり)とともに発展してきた。これは、桐生が養蚕、製糸地帯を控え、桐生川などの水利に恵まれた立地条件の優位性によるといえる。明治、大正と進むにつれて力織機と工場が主体になった。現在は内需物の帯地(おびじ)と高級御召(おめし)の着尺(きじゃく)、輸出物の紋襦子(もんじゅす)、富士絹、人絹などがおもである。しかし、繊維工業は停滞ぎみで、最近では機械金属工業が基幹産業となっており、部品加工製造が盛ん。また、地場産業としてパチンコ台製造があげられる。天満宮の北に群馬大学工学部があり、桐生が岡公園、水道山、彦部家住宅などは市民の憩いの場となっている。このほか、国指定重要文化財の旧群馬県衛生所(現在は桐生明治館)や大川美術館がある。また、日本の近代化の歴史を示す近代化遺産の保存に努めていて、群馬大学工学部同窓記念会館、水道山記念館、飯塚織物(MAEHARA 20th)工場(以上、国登録有形文化財)、桐生倶楽部(くらぶ)会館(市指定重要文化財)などが残っている。製織業で栄えた桐生新町の町並みは、2012年、重要伝統的建造物群保存地区に選定された。面積274.45平方キロメートル、人口10万6445(2020)。

[村木定雄]

『『桐生織物史』全3冊(1935~1940・桐生織物同業組合)』『『桐生市史』全4冊(1958~1971・同書刊行委員会)』『『桐生の今昔』(1958・桐生市)』『『桐生織物史 続巻』(1964・桐生織物同業組合)』



桐生(市)(きりう)
きりう

桐生(市)

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「桐生」の意味・わかりやすい解説

桐生[市]【きりゅう】

群馬県東部の市。1921年市制。足尾山地の南西麓,渡良瀬川と支流の桐生川流域及び赤城山東方の山地一帯を占める。両川の合流点にある中心市街は,中世末期以来の絹と織物の市場町で,近世には桐生絹市が開かれ,絹織物が幕府の保護を受けるに及んで著しく発展。第2次世界大戦後は帯地,御召,服地,服裏地などの生産が多く,海外でも高い評価を得ているが,停滞傾向にある。代わって一般機器,電気機器工業が発展,市の製造品出荷額の約6割(2001)を占めるようになった。両毛線,東武桐生線が通じ,わたらせ渓谷鉄道,上毛電鉄の起点。2005年6月勢田郡新里村,黒保根村を編入。東日本大震災で,市内において被害が発生。274.45km2。12万1704人(2010)。
→関連項目桐生織物両毛線

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「桐生」の解説

桐生
きりゅう

群馬県東部,渡良瀬 (わたらせ) 川沿岸にある都市。絹織物生産地として著名
江戸時代,機業地として急速に発達。18世紀初頭,京都西陣から高級織物技術を導入し,縮緬 (ちりめん) ・絽 (ろ) ・紗 (しや) などを生産,やがて西陣に迫るまでになった。明治初年,ジャカード・バッタンや力織機を採用して生産を進めた。1921年市制を施行。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の桐生の言及

【足利織物】より

…関東各地の織物産出は《続日本紀》によって奈良朝以前までさかのぼりうるが,栃木県の足利が織物産地として名をなすのは18世紀半ば,とりわけ高機(たかばた)が普及した18世紀末以後のことに属する。先進地桐生(桐生織物)と同じ高級絹織物のほか大衆的な絹綿交織物と綿織物を盛んに生産し,19世紀に入ると桐生を離れて独自の市を開設した。桐生側は対抗措置を講じてこれらの動きを抑えようとするが,かかる抗争を伴いつつも,他面では国や県の区画をこえて両者の間には織物の業者組織や技術や売買等に関する相互浸透があった。…

※「桐生」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android