熊野鳥居禅尼(読み)くまのとりいぜんに

朝日日本歴史人物事典 「熊野鳥居禅尼」の解説

熊野鳥居禅尼

生年生没年不詳
平安後期・鎌倉時代の武家の女性。源為義の娘で義朝の姉。紀伊国湯橋(和歌山市)を知行していたが,建久5(1194)年8月,たっての所望がかなえられて源頼朝から但馬国多々良岐荘(兵庫県朝来町)の最初の地頭に任じられた。のち,この地頭職養子に譲与し,承元4(1210)年,幕府もこれを承認している。その後,紀伊国佐野荘(新宮市)の地頭職も得,一期ののちは子息長詮(法橋)に相伝させた。

(田端泰子)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「熊野鳥居禅尼」の解説

熊野鳥居禅尼 くまのとりいぜんに

?-? 平安後期-鎌倉時代の女性。
源為義の娘。源頼朝は甥(おい)。熊野別当行範(ぎょうはん)と結婚。紀伊(きい)湯橋(和歌山県)を知行。建久5年(1194)頼朝から但馬(たじま)(兵庫県)多々良岐(たたらぎの)荘の最初の地頭に任じられ,のち紀伊佐野荘の地頭職(しき)もえた。名は丹鶴姫。通称は「たつたはらの女房」。

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