日本歴史地名大系 「中須村」の解説
中須村
なかずむら
- 山口県:徳山市
- 中須村
現徳山市の東端に位置し、蛇行する
「防長地名淵鑑」に「応安六年四月の文書に中須村、永正三年の文書に遠石庄中須郷と見ゆ」とある。
慶長五年(一六〇〇)の検地帳では中須郷として石高一千三八二石余、同一五年の検地帳では高二千五七七石余、うち田方が一七〇町余で二千一六〇石余、畠方が九六町余で二八六石余、百姓屋敷二五四とある。
毛利輝元が元和三年(一六一七)次男就隆に分知した領知目録に、中須村二千五七七石三斗一升五合とみえるが、同七年には本藩に返して替地を受領している(毛利家文書)。
中須村
なかずむら
- 島根県:益田市
- 中須村
高津川と益田川が形成する平野北端、日本海に臨む。地名のいわれは「石見八重葎」には高津川と益田川の中間にあるので中洲と称したという。東は
海に面して良港をもつ中須浦は益田組七浦大年寄の支配下で、大年寄は大賀家で浦長兼帯世襲。慶応二年(一八六六)の浦方諸事書上帳(大賀家文書)によると浦方上納銀四三匁余(うち水夫役三六匁余・浦役七匁)、鰯網四帖役二〇目・糸網一帖役八匁、五五石以上二一四石積の船一八、大敷網・鰯網漁も盛んで北前航路も行われ、船問屋は賑わった。
中須村
なかすむら
嘉禎四年(一二三八)四月一七日付の伊都岐島社廻廊員数注進状案(新出厳島文書)の「自大宮御方南脇至于御供屋三十間」のうち「未被立分」に「中洲別府」とみえる。正応二年(一二八九)正月二三日付の沙弥某譲状(田所文書)は、安芸国の在庁官人田所氏の譲状で、前半は得分や所領を、後半は所従などを書上げているが、そのなかに「一所田畠一反内田大畠一反 中洲作人不定即進止也」「中洲別符友末 父者紀五郎大夫友道也、重代相伝下人也、子細者友末起請文并日吉大宮預所周防律師状次第沙汰証文具者也」とみえ、
中須村
なかずむら
- 広島県:府中市
- 中須村
中須村
なかのすむら
斐伊川支流の河口の村。
仲須・中洲とも書き、「なかす」「なかんす」ともよぶ。文政七年(一八二四)の有高輪切帳写(県立図書館蔵)に記載された輪は、
中須村
なかずむら
中須村
なかずむら
中須村
なかずむら
中須村
なかすむら
中須村
なかすむら
中須村
なかずむら
- 三重県:伊勢市
- 中須村
宮川下流の左岸自然堤防上、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報