生西(読み)しょうせい

朝日日本歴史人物事典 「生西」の解説

生西

生年生没年不詳
鎌倉後期の悪党。性誓とも号す。兵衛次郎入道生西は,近衛家領丹波国宮田荘(兵庫県西紀町)の前公文であったが,正安3(1301)年ごろより,荘内富裕百姓らの住宅に打ち入り略奪放火,城郭を構え,年貢を奪取,荘園政所の焼打ちなどの悪党行為を繰り返した。宮田荘悪党は生西の父子,兄弟らおよび近隣の住人たちより構成され,三百余人という勢力を有した。六波羅探題は丹波国の地頭御家人を動員して追討にあたったが成果は上げられず,元亨3(1323)年にも生西は,自国や他国の名誉の悪党人を率いて活動を続けている。<参考文献>田中稔『鎌倉幕府御家人制度の研究

(水野章二)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「生西」の解説

生西 しょうさい

?-? 鎌倉-南北朝時代医師
筑前(ちくぜん)(福岡県)香椎宮(かしいぐう)の学頭身体の部位別に疾病を列挙した「五体身分(みわけ)集」をあらわした。「せいざい」とも。

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世界大百科事典(旧版)内の生西の言及

【医者】より

…(2)実証医学の展開期 南北朝期以降になると,争乱を反映して,僧医や武士たちが実用本位の医療を行うようになった。僧医の壺隠庵有隣は疾病ごとにその原因,症候,診断,類症鑑別,予後を記した《福田方》を著し,生西は民間療法を結集した《五体身分集》を著してその普及をはかっている。治療に必要な技術だけを重視したもので,戦国期の金創医に大きな影響を与えた。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」