日本歴史地名大系 「生野銀山跡」の解説
生野銀山跡
いくのぎんざんあと
〔中世〕
「銀山旧記」は、天文一一年(一五四二)三月、里人が
生野銀山は初め山名祐豊の支配下にあり、祐豊は弘治二年(一五五六)四月禁裏に白銀二〇〇両を献上している(「御湯殿上日記」弘治二年四月三〇日条)。しかし「銀山旧記」によれば、同年銀山は祐豊の被官太田垣氏に奪われ、太田垣氏は初め京正阿弥、永禄元年から杉原七郎左衛門家次を代官として銀山に配したという。永禄一二年銀山は木下藤吉郎(豊臣秀吉)らの織田信長の軍勢に占領された。山名祐豊は織田軍の但馬制圧によって泉州堺に亡命したが、信長の御用商人となっていた堺の豪商今井宗久の斡旋によって永禄一二年冬帰国を許された。しかし祐豊は、銀山を含む但馬の知行をすぐに回復することはできなかった。そこで信長は翌元亀元年四月一九日付で、次の書状を祐豊に与えている(今井宗久書札留)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報