生野銀山跡(読み)いくのぎんざんあと

日本歴史地名大系 「生野銀山跡」の解説

生野銀山跡
いくのぎんざんあと

生野町域を中心に所在した鉱山。鉱区は猪野々いのの小野この白口しらくち竹原野たけはらのなどにわたり、近世初頭より多数の坑が開かれ、盛衰を繰返した。銀鉱山を主体とし銀山を通称とするが、銅・鉛ほか多種鉱物の産出があった。当銀山の開坑は大同二年(八〇七)というが(「但馬考」ほか)信憑性がない。中世には山名氏あるいは太田垣氏の支配下にあり、織豊政権期を経て江戸時代には幕府の直轄地として生野奉行(または生野代官)が配され、銀山領には八ヵ所の番所が設置された。

〔中世〕

「銀山旧記」は、天文一一年(一五四二)三月、里人が古城こじよう(山名祐豊の生野城があった)の南西から銀鉱を掘出したのに始まる、と記す。この鉱坑はじや間歩とよばれた。しかし里人は銀の製錬法を知らず、たまたま来た石見いわみ銀山(現島根県大田市)衆の援助を受け、さらに五右衛門ごえもん間歩などを開いたという。天文一一年頃に、おそらく生野銀山が初めて開かれたのであろう。ちなみに「銀山旧記」は寺田豊章が元禄三年(一六九〇)成稿したもので、天文一一年より天和三年(一六八三)までの銀山史を記す。記事には錯誤もあるが、史料の乏しい開坑初期の生野銀山史にとって、重要な記録となっている。「銀山旧記」によれば、次いで永禄一〇年(一五六七)堀切、元亀元年(一五七〇)金木・松木・藤木・サヤゴ、天正一三年(一五八五)上月・小鉉・出賀・灰色・入道・淵・荒木・佐近山・小日向の各間歩が開かれ繁栄した。これらの間歩は所在不明のものもあるが、堀切間歩は、最近まで操業していた金香瀬かながせ坑口の近所、金木・サヤゴ・出賀・小日向などは、大谷おおたに川筋に点在したと推定されている。

生野銀山は初め山名祐豊の支配下にあり、祐豊は弘治二年(一五五六)四月禁裏に白銀二〇〇両を献上している(「御湯殿上日記」弘治二年四月三〇日条)。しかし「銀山旧記」によれば、同年銀山は祐豊の被官太田垣氏に奪われ、太田垣氏は初め京正阿弥、永禄元年から杉原七郎左衛門家次を代官として銀山に配したという。永禄一二年銀山は木下藤吉郎(豊臣秀吉)らの織田信長の軍勢に占領された。山名祐豊は織田軍の但馬制圧によって泉州堺に亡命したが、信長の御用商人となっていた堺の豪商今井宗久の斡旋によって永禄一二年冬帰国を許された。しかし祐豊は、銀山を含む但馬の知行をすぐに回復することはできなかった。そこで信長は翌元亀元年四月一九日付で、次の書状を祐豊に与えている(今井宗久書札留)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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