今井宗久(読み)イマイソウキュウ

デジタル大辞泉 「今井宗久」の意味・読み・例文・類語

いまい‐そうきゅう〔いまゐソウキウ〕【今井宗久】

[1520~1593]安土桃山時代の堺の豪商・茶人。大和今井の人。名は兼員。号、昨夢斎。武野紹鴎たけのじょうおうに茶を学ぶ。織田信長に近づいて堺対策に協力し、多くの利権を握る。のち、豊臣秀吉の茶頭となり、千利休津田宗及とともに三大宗匠と称された。「今井宗久茶湯日記抜書」がある。

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精選版 日本国語大辞典 「今井宗久」の意味・読み・例文・類語

いまい‐そうきゅう【今井宗久】

  1. 安土桃山時代の茶人。堺の人。名は久秀。通称彦八郎、彦右衛門。宗久と号す。武野紹鴎に茶を学び、その女婿となる。一五代将軍足利義昭、織田信長、豊臣秀吉に仕え、千利休、津田宗及とともに三宗匠と称された。永正一七~文祿二年(一五二〇‐九三

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改訂新版 世界大百科事典 「今井宗久」の意味・わかりやすい解説

今井宗久 (いまいそうきゅう)
生没年:1520-93(永正17-文禄2)

安土桃山時代の堺の豪商,茶人。信長・秀吉時代の天下三宗匠の中の一人。近江国の地侍の子として生まれ,彦右衛門兼員と称していたが,本願寺門徒として堺に入り,納屋宗次の家に寄宿し,武野紹鷗(たけのじようおう)の女婿となる。このころから納屋宗久と称して茶会往来をはじめたらしく,伝存する茶会記《今井宗久茶湯書抜》は1554年(天文23)から89年(天正17)に至る,83回の茶会記が収められている。それと同時に近江から東海地方にまで商圏をのばし,納屋業(倉庫兼金融業)のほか薬種,火薬,鉄砲などの商売も行って巨富を得た。1568年(永禄11)に信長が入京するや〈松島茶壺〉と〈紹鷗茄子(茶入)〉を献上して信任を得る。ときに矢銭を課された堺衆が信長に一戦を挑んだときも,これを不発に終わらせた。この功によって堺五ヶ庄の代官職をはじめ,信長の蔵元になったり,但馬生野銀山の経営を任されるなど,多くの利権を与えられ,堺町人の随一として信長の政権に関与した。そのうえ信長の茶頭ともなって津田宗及,千利休の参仕をもはからっている。また秀吉の時代になっても同様の力をもって三宗匠の筆頭に位置したが,利休のように常侍することがなかったことと,本願寺との関係によってしだいに秀吉から疎んぜられるようになり,排除された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「今井宗久」の意味・わかりやすい解説

今井宗久
いまいそうきゅう
(1520―1593)

安土(あづち)桃山時代の豪商、茶人。名は彦右衛門兼員(ひこえもんかねかず)、宗久は法号、昨夢斎と称した。堺(さかい)の納屋衆(なやしゅう)の随一で、家号も納屋を称する。武野紹鴎(たけのじょうおう)の女婿となり、紹鴎名物の多くを伝領した。1568年(永禄11)9月、上洛(じょうらく)した織田信長が堺の町に矢銭(やせん)2万貫を課したのに対し、町衆による抗戦の働きが高まった際、津田宗及(そうきゅう)とともに講和派の中心として行動した。その間積極的に信長に接近し、紹鴎伝来の名物茶器を献上、翌年7月には岐阜に下り、歓待されている。これ以後、武器、火薬の調達、生野(いくの)銀山の開発など、政商として活躍する一方、宗及や千利休(せんのりきゅう)らとともに信長の茶頭(さどう)となる。利休を推薦したのは宗久であった。ただし茶頭としては、信長の上洛時とか、安土築城後はときおりそこに参上する程度で、常時近侍奉仕したわけではない。本能寺の変後はそのまま豊臣(とよとみ)秀吉の茶頭となった。しかし、本願寺と密接な関係をもっていたことや、「茶の湯に思い入れがない」とされたため、しだいに秀吉にうとんぜられ、1587年(天正15)の北野大茶会あたりから、その活躍はほとんどみられなくなる。茶会記の一部が『今井宗久茶湯日記書抜(かきぬき)』として伝えられている。

[村井康彦]


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朝日日本歴史人物事典 「今井宗久」の解説

今井宗久

没年:文禄2.8.5(1593.8.31)
生年:永正17(1520)
戦国・安土桃山時代の堺の豪商,茶湯者。対外的な貿易港であり,独立的な都市であった堺の代表者であり,武野紹鴎の女婿として,織田信長・豊臣秀吉政権下で茶の湯の興隆に貢献した。近江(一説に大和)に生まれ,青年期に堺に出る。名は兼員,通称彦右衛門,昨夢斎寿林と号した。納屋を称するのは堺の倉庫,金融などの局面で実力者であることを示す。早く信長に接近し,紹鴎伝来の松島の茶壺,紹鴎茄子などの茶器の献上は,信長の茶の湯政道を促進させた。堺五ケ庄の代官職,淀川今井船の関銭免除,生野銀山の経営,鉄砲鍛冶の差配など多くの権益を与えられ,信長の茶頭を務めている。天文23年から天正17年(1554~89)の81回の茶会記録『今井宗久茶湯日記抜書』(『茶道古典全集』10巻)は孤本で,抄出であるところが惜しまれるが,貴重な資料である。堺市博物館の前に茶亭黄梅庵が移築されている。墓塔は堺南半町の臨江寺にある。<参考文献>『堺市史』,戸田勝久『武野紹鴎研究』

(戸田勝久)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「今井宗久」の解説

今井宗久
いまいそうきゅう

1520~1593.8.5

織豊期の堺の商人・茶人。千利休・津田宗及(そうぎゅう)につぐ天下三宗匠の1人。号は昨夢斎。大和国今井に生まれ(一説に近江国),堺にでて納屋宗次の家に住み,同家を継いだ。織田信長の堺への矢銭(やせん)賦課に対しては,保守派の抗戦論に対して和平論を主張,信長の武器調達にも協力して信頼をえ,堺五箇荘代官に任じられた。茶道を武野紹鴎(じょうおう)に学び,信長の茶頭(さどう)として,京都妙覚寺茶会・相国寺茶会に参席した。茶会記に「今井宗久茶湯書抜」がある。松島茶壺・紹鴎茄子(なす)(茶入)・定家色紙などの名物を所持した。茶室に大徳寺黄梅院昨夢軒がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「今井宗久」の解説

今井宗久 いまい-そうきゅう

1520-1593 戦国-織豊時代の商人,茶人。
永正(えいしょう)17年生まれ。武野紹鴎(じょうおう)の娘婿。堺(さかい)で納屋業(倉庫業)のほか鉄砲,火薬などをあきない巨富をえる。織田信長に紹鴎伝来の名物茶器を献上し,堺五ケ荘(ごかのしょう)の代官,茶頭(さどう)となる。のち豊臣秀吉にも茶頭としてつかえた。茶会記「今井宗久茶湯書抜」がある。文禄(ぶんろく)2年8月5日死去。74歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。大和(奈良県)出身とも。名は兼員。通称は彦右衛門。号は昨夢斎。

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百科事典マイペディア 「今井宗久」の意味・わかりやすい解説

今井宗久【いまいそうきゅう】

安土桃山時代の堺の豪商,茶人。初め大和今井に住んだが,堺に出て茶を武野紹鴎(たけのじょうおう)に学び,のちその女婿となる。織田信長,豊臣秀吉に仕え,千利休津田宗及とともに天下三宗匠の一人となった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「今井宗久」の意味・わかりやすい解説

今井宗久
いまいそうきゅう

[生]永正17(1520).大和,今井
[没]文禄2(1593).8.5. 堺
室町時代末期,安土桃山時代の茶人,堺の豪商。名は彦右衛門。号は昨夢斎,晩年仏門に入って宗久 (宗休) と称する。生涯の大半を堺で過した。武野紹鴎に茶を学び,その後継者となる。足利義昭に茶を指導し,織田信長にも仕える。豊臣秀吉の時代には千利休,津田宗及とともに 3000石の知行を受け,三大宗匠と称された。茶会記として『今井宗久茶湯書抜』2巻がある。

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旺文社日本史事典 三訂版 「今井宗久」の解説

今井宗久
いまいそうきゅう

1520〜93
安土桃山時代,堺の富商で茶人
大和(奈良県)の人。のち堺に移り,茶を武野紹鷗 (じようおう) に学び,織田信長・豊臣秀吉に仕え茶頭 (さどう) となった。1587(天正15)年の北野大茶会に参加。その茶日記『茶湯書抜』は有名。

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