日本歴史地名大系 「佐渡金銀山」の解説
佐渡金銀山
さどきんぎんざん
町部中心街約一・五キロ東方の標高一一〇メートルの山中の
〔開発〕
「佐渡風土記」によると、慶長六年(一六〇一)に鶴子銀山の稼行人三浦治兵衛・渡部儀兵衛・渡部弥次右衛門の三人が、
元和四年(一六一八)鎮目市左衛門が佐渡奉行となり、銀山は幕府老中の支配下に置かれる。鎮目は山主への資材の官給制度をやめた代りに公納分を減らし、労働者や町人に二割安米の払下制度を採用。これによって米不安を解消し、労働力の確保に努めるなど実務型の経営策で産金高を増やした。翌五年の掟(佐渡年代記)には、「一山衆中の下人並大工・穿子の公事は、其組々に而年寄衆双方之理非を聞届扱可被相済、従雖為親類知音毛頭依怙贔免被致間敷候事」「一町人中之公事は、其町々之問屋・年寄・中使相談いたし扱可被相済事」「一在郷之百姓と山衆・町衆との公事は、其町々中使と談合ニ而可被相済事」と触れ、法度の運用をゆるめ、公事出入を自治組織にゆだねた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報