田結経ノ岳台場跡
たゆいきようのたけだいばあと
[現在地名]飯盛町池下名
文久二年(一八六二)肥前佐賀藩親類同格の諫早家によって築かれた浦手台場の跡。領内の浦固めは文化四年(一八〇七)のロシア船取扱法によるもので、同六年には戸石村牧島(現長崎市)から江ノ浦までの海岸部に当地の普賢岳や手崎島、魚見岳(現長崎市)など四ヵ所に筒配・放出役(侍・足軽)などが配置された。池下名には早くから遠見番屋が置かれ、元禄二年(一六八九)「池下番屋并遠見家」の修理が指示されている(諫早日記)。正徳二年(一七一二)の恒例帳(諫早市立図書館蔵)に「池下番弐人」とみえ、番料米・番所修理・畳・鯨油・薪の支給などが定められていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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