矢貫村
やぬきむら
現町域の北部中央に位置し、一宮川支流の三途川が流れる。大多喜往還が通り、長南駅が置かれており、在町を形成していた。長南は庁南などともみえ、中世以来の政治的中心で、江戸時代には矢貫村を公的名称とするものの、史料上は人馬継立関連では長南と記載され、それ以外でも長南の呼称がみられる。とくに近世初めには両者に区別があったと想定することもできる。応永二年(一三九五)三月四日の法印尚賢書下(鶴岡事書日記)に矢貫・倉持両所とみえ、鎌倉鶴岡八幡宮の社家への年貢が未進となっているため、八幡宮は佐坪郷政所に命じて委細を報告するよう命じている。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に矢貫村または長南矢貫村(萩野本)とみえ、高四八四石。正保国絵図では長南町とし高四八一石。寛文四年(一六六四)の久世広之領知目録(寛文朱印留)に矢貫村とみえる。同五年の朱印状(御朱印帳)には埴生郡矢貫郷之内一〇石とあり、天正一九年(一五九一)以来の印判に任せて地内の大林寺領が安堵されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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