矢野保
やのほ
喜多郡矢野郷(和名抄)に存在した古代末―中世期の荘園。今の西宇和郡および八幡浜市域の保内郷とよぶ地域にあったと推定される。この荘園は初め六条院領(白河天皇第一皇女子内親王の所領)であった(八代国治「荘園目録」)。その後、後白河法皇の時、本所が同法皇、領家が平頼盛となった。頼盛は平忠盛の第五子、清盛の異母弟であって、累進して権大納言となり、池殿に居住したので池大納言と称した。
寿永三年(一一八四)四月五日の源頼朝下文案(久我文書)に、「池大納言沙汰」として「矢野領伊与」を含め「右庄園拾漆箇所、載没官注文、自於院所給預也、然而如元為彼家沙汰、為有知行勒状如件」とある。頼朝が院庁から平氏一族の所領の処分を一任された時、かつて頼盛の母池禅尼に救われた恩義に報いるために矢野保等の荘園を池大納言家に返却したのである(「吾妻鏡」元暦元年四月六日条)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
世界大百科事典(旧版)内の矢野保の言及
【八幡浜[市]】より
…佐田岬半島基部の南側に位置し,周囲を四国山地西端の山々に囲まれ,西はリアス海岸で海上には大島,佐島などが浮かぶ。当市域を中心とする一帯は平安時代末期,池大納言平頼盛の所領矢野保(矢野領)の地で,南北朝期には摂津氏の支配下にあった。中世から近世にかけて矢野保内(やのほない),保内郷の称も生じ,八幡浜湾に注ぐ五反田川下流の矢野町は,近世,宇和島藩の在郷町であった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」