石黒庄(読み)いしぐろのしよう

日本歴史地名大系 「石黒庄」の解説

石黒庄
いしぐろのしよう

医王いおう山の東麓、小矢部おやべ川流域にあった庄園で、庄域は現福光町・城端じようはな町・井口いのくち村・福野ふくの町にかけて広がっていたと推定される。立庄の時期は、貞治三年(一三六四)の仁和寺領文書目録(仁和寺文書)に代々官符同牒状目録の一通として「石黒庄本公験事承暦二、八、廿三宣旨歟」とあることから、承暦二年(一〇七八)と考えられ、後三条天皇の御願寺円宗えんしゆう(現京都市右京区)領として立庄されたとみられる。庄域は大きく三つに分れ、それぞれ石黒上郷・同中郷・同下郷で一庄、弘瀬ひろせ郷・山田やまだ郷で一庄、吉江よしえ郷・太海ふとみ郷・院林いんばやし郷・直海のみ郷・大光寺だいこうじ郷で一庄を構成し、総称して石黒三箇いしぐろさんか庄とよばれた(弘長二年三月一日「関東下知状」尊経閣文庫所蔵文書)。各郷の成立は平安末期と推定される。鎌倉時代初めには円宗寺は京都仁和寺の一子院となっていたが、この間石黒庄は円宗寺を本家としながら領家職は分割伝領されていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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