穴川野
あながわの
江戸時代にあった入会地で、千葉町・寒川村・登戸村(現中央区)、黒砂村・稲毛村・園生村・小中台村などが秣場として利用していた。この利用またその部分的な開発をめぐり、寛文八年(一六六八)小中台村など三村と千葉町のほか三村が境論を起こしたほか、元禄二年(一六八九)にも争論となっている。享保期(一七一六―三六)佐倉藩領の千葉町と寒川・登戸・黒砂の三村は野銭三五貫文を納めており、寛保二年(一七四二)にはこの町村分の二〇〇町歩が高請され、野高永一〇貫五〇〇文を分担納入することになった(和田家文書・成田図書館蔵文書など)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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