竹本隼太(読み)たけもと・はやた

朝日日本歴史人物事典 「竹本隼太」の解説

竹本隼太

没年:明治25.11.30(1892)
生年嘉永1(1848)
明治期を代表する東京の陶工。江戸深川高橋大工町に生まれ,本名正典,幼名は八十五郎。家系は代々幕府旗本で,父の要斎は外国奉行に任ぜられ5000石扶持という高格の武人であった。16歳から幕府に出仕したが,将軍に従って大坂に逗留したとき,陶芸に興味を持ち,江戸に帰ってから小石川の高田豊川町に築窯し含翠園と称した。はじめは薩摩焼を写し,やがて三彩から磁器へと移り,各種の単色釉に工夫を凝らした。その背景には中国の清朝陶磁の影響が色濃い。明治10(1877)年第1回内国博覧会に出品して花紋賞牌を受賞し,名声を確立した。

(矢部良明)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「竹本隼太」の解説

竹本隼太 たけもと-はやた

1848-1892 明治時代の陶工。
嘉永(かえい)元年8月15日生まれ。旧幕臣。維新後東京に含翠園を開窯し陶業をいとなむ。のち納富介次郎(のうどみ-かいじろう),河原忠次郎らにまなび,明治10年第1回内国勧業博覧会に薩摩焼(さつまやき)の草花模様香炉を出品し,花紋賞牌をうけた。明治25年11月30日死去。45歳。江戸出身。名は正典。幼名は八十五郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の竹本隼太の言及

【明治・大正時代美術】より

… 明治初年,すでに蒔絵の柴田是真や彫金の加納夏雄は,名工として世に知られていたが,大多数の工芸職人たちはこうした工芸振興策をあしがかりとして頭角を現していった。彫金の海野勝珉(うんのしようみん),布目(ぬのめ)象嵌の鹿島一布(かしまいつぷ)(1828‐1900),蒔絵の白山(しらやま)松哉,無線七宝の濤川(なみかわ)惣助,西陣織の伊達弥助(1844‐92),そして陶工の〈歳寒三友〉とたとえられた宮川香山(1842‐1916),竹本隼太(はやた)(1848‐92),3代清風与平(せいふうよへい)(1851‐1914)たちである。
[近代化への道]
 1907年官設の展覧会として文部省美術展覧会(文展)が開設された。…

※「竹本隼太」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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