鹿児島県(旧島津藩の薩摩・大隅地方)の近世陶芸の総称。この地は中世においてまったく製陶活動が行われなかったが、陶器窯(よう)を開く契機を与えたのは領主島津義弘(よしひろ)で、豊臣(とよとみ)秀吉の朝鮮出兵後、朝鮮半島の陶工を招致して開始された。当地に残る後世の文献では、陶工の渡来は1595年(文禄4)説と、1598年(慶長3)説とに分かれている。陶工は串木野(くしきの)、市来(いちき)、鹿児島などに上陸し、のちに竪野(たての)系、苗代川(なえしろがわ)系、西餅田(にしもちだ)系、竜門司(りゅうもんじ)系と大きく4地域の窯(かま)の系譜を形成していった。
竪野系は現在の鹿児島市の北東方に窯址(ようし)が点在するが、島津義弘が陶工金海(星山仲次(ちゅうじ))に命じて姶良(あいら)郡帖佐(ちょうさ)村宇都(うと)(現、姶良市)に開いた宇都窯(うとよう)に始まり、古帖佐とよばれる茶器を多く焼造した。また竪野初期の作は古帖佐とともに古薩摩といわれ、竪野窯は薩摩焼の主流をなした。苗代川系は日置(ひおき)市東市来(ひがしいちき)町美山近くに古窯址が散在しており、帰化陶工朴平意(ぼくへいい)を中心として1605年(慶長10)ごろ串木野窯、元屋敷窯を築窯。竜門司系は陶工卞芳仲(べんほうちゅう)を陶祖とし、元禄(げんろく)年間(1688~1704)に現在の姶良市東部に竜門司窯を開いたといわれる。竜門司窯、苗代川窯は黒物(くろもん)の日用品を多く手がけ、今日も伝統的な民芸陶器で活動している。西餅田系諸窯は姶良市南部に展開し、一名元立院(げんりゅういん)焼の名で知られ、陶祖の小野元立が1663年(寛文3)に築窯したと伝えられる。
薩摩焼は、俗に白薩摩とよばれる失透白釉(ゆう)と、黒薩摩とよばれる鉄呈色の黒褐釉を用いて、茶具(水指、茶碗(ちゃわん)、茶入れなど)と日常飲食器を焼いていたが、江戸末期、竪野窯が京都から色絵技法を導入して薩摩金襴手(きんらんで)を始めてから、主力の作風は一変し、色絵が人気を博し、1776年(安永5)に開かれたという平佐(ひらさ)窯(現、薩摩川内(せんだい)市)では、伊万里(いまり)焼の陶技を受けて磁器が焼造されている。
[矢部良明]
『岡田喜一著『陶磁大系16 薩摩』(1972・平凡社)』▽『岡田喜一編著『日本のやきもの16 薩摩』(1976・講談社)』
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域ブランド・名産品」事典 日本の地域ブランド・名産品について 情報
鹿児島県の各地で焼かれた陶磁器の総称。桃山時代,文禄・慶長の役の際,領主島津義弘は朝鮮より多くの陶工を連れ帰った。その一人金海(星山仲次)が,姶良(あいら)郡の帖佐宇都に窯をきずいたのが始まりと伝える。これが宇都(うと)窯である。この窯は他に例をみない単室の蛇窯で規模も小さく,金海はこの窯で義弘の好む茶具をつくり,茶入製作を学ぶため瀬戸窯にも赴いたという。その後,藩窯系の窯では加治木町(現,姶良市)に御里(おさと)窯がきずかれた。この2窯では天目釉が多用され,俗に火計(ひばかり)手と呼ばれる白釉陶も焼いた。義弘が1619年(元和5)に没した後,2代藩主家久は窯を鹿児島市の城下にうつし,竪野窯をひらき,釉景色のゆたかな茶具を焼いた。この窯からは寛文6年(1666)銘の染付の陶片が出土している。民窯としては,帰化陶工の朴平意がきずいた苗代川(なえしろがわ)窯が東市来町(現,日置市)にあり,やはり白釉と黒釉をつかって日常雑具をおもに焼造した。1786年(天明6)になると平佐郷の領主北郷久陣(ほんごうひさつら)の家臣伊地知団右衛門が有田から陶工をまねいて平佐窯をおこし,はじめて磁器を焼き,磁胎にべっこう調の三彩釉をかけた平佐三彩は海外でも人気を博した。幕末から明治にかけて海外むけに大量につくられた陶胎金襴手はとくに名高い。
執筆者:矢部 良明
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鹿児島県産の陶磁器の総称。文禄・慶長の役の際,島津義弘が招致した朝鮮の陶工が,1598年(慶長3)に鹿児島各地に土着した。義弘が陶工金海(きんかい)(星山仲次)らを用いて現在の姶良(あいら)市に開いた藩窯の系統の窯を竪野(たての)系といった。朴平意(ぼくへいい)らが住した東市来町美山(現,日置市)には苗代川系の窯が広まり,卞(べん)芳仲らは加治木町(現,姶良市)に竜門司窯系をおこし,1663年(寛文3)に小野元立坊(げんりゅうぼう)は横川町山ケ野(現,湧水町)に元立院窯を開くなど,4系統の窯が成立した。江戸前期の遺品は大半が竪野系の茶陶で,数は僅少だが茶入が多くを占める。18世紀には白釉・黒釉のほか,象嵌(ぞうがん)・鉄絵・三彩が焼かれ,19世紀には京焼の色絵を学び,薩摩金襴手(きんらんで)となって結晶し,明治期には輸出の花形となった。
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