48年革命(読み)よんじゅうはちねんかくめい

改訂新版 世界大百科事典 「48年革命」の意味・わかりやすい解説

48年革命 (よんじゅうはちねんかくめい)

フランスの二月革命,ドイツの三月革命を含み1848-49年にヨーロッパ全体に同時多発的に起こった革命を総称して48年革命あるいは1848年革命と呼ぶ。個別の諸革命もそれぞれ48年革命と呼ぶこともあるが,48年革命と呼ぶときにはとくに革命の全ヨーロッパ的性格が強調されている。

48年革命の全ヨーロッパ的性格は当時のヨーロッパの政治的経済的背景から説明できる。フランス革命と48年革命の間の時期を〈二重革命の時代〉(ホブズボーム)と呼ぶように,この時期は資本主義的経済体制の発展を象徴するイギリス,フランスの産業革命と依然として大きな影響力を持っていたフランス革命の理念によって規定されていた。政治的にはフランス革命の理念の展開を抑えるウィーン体制が存在していたが,革命の理念はそれを超えてさまざまな展開を示し体制をその基盤から揺り動かした。スペインの〈リエゴの進軍〉(1820),ギリシア解放戦争(1821),フランス七月革命(1830),ポーランドの蜂起(1830),リヨン労働者の蜂起(1830,34),イギリスのチャーチスト運動の高揚(1839,42,48),シュレジエン織工一揆(1844)と続く運動はしだいにフランス革命の理念さえも超えた意味内容を持ったものになっていった。すなわち産業革命にともなう工業の発展は新たな階級としてのプロレタリアートを創出し,革命運動に新たな対立構造を付け加え,それとともに革命の社会的側面が強調されることとなった。工業の発展の遅れた地域においても問題はたとえば〈社会問題〉として顕在化し,民族運動においてさえも社会的側面を抜きにしては進展しえないという状況が生じてきた。そしてこの48年革命の社会的性格が一方において革命のヨーロッパ的一体性をもたらし,他方において問題が各地域の土着的性格を反映せざるをえないという点で革命の地域的性格を強化していた。

 別の見方をしてみるならば,第1に,この時期に客観的には残されていたブルジョア革命の課題をブルジョアジーが革命的方法によって実現することを放棄し,その課題の遂行は小ブルジョアジーやプロレタリアートの手にまかされることになり,そうすることによってブルジョア革命の課題はより深化され,48年革命はブルジョア民主主義革命としての側面を持つことになった。第2に,革命に積極的に参加した民衆の大きな部分が労働者であったことは48年革命に未熟ながらもプロレタリア革命としての側面を付け加えた。それはプロレタリアートの最初の階級的蜂起といわれるパリの六月蜂起に顕著な形で現れたが,それだけではなく3月のウィーン,ベルリン,9月のフランクフルト,10月のウィーンなど革命の決定的場面において労働者たちはつねに重要な役割を果たしていた。第3に,ブルジョア革命の課題であった民族的統一の課題に労働者や農民がその社会的要求を持って参加したことによって,民族運動も単なる国家形成を目標とする統一運動から社会的変革をともなう解放運動へと転換する。そのことは民族運動自体のあり方をより複雑なものにし,運動自体が内部矛盾を抱えたり,解放をめざす民族相互の矛盾が反革命に利用されたりすることも少なくなかった。こうして48年革命においては革命の課題とそれを実現しようとする運動がきわめて複雑にからみ合い重層化していった。

 思想史的にみるならば,48年革命は自由主義をすでに乗り越えていた。革命はむしろ民主主義や共和主義の進展を促したばかりではなく,イギリスのロバート・オーエンオコーナー,フランスのルイ・ブラン,フーリエ,プルードンなどの初期社会主義者の思想の実践の場となった。1848年1月に《共産党宣言》を出版したマルクス,エンゲルスもこの革命での実践活動を通じてその共産主義思想を確立していった。またゲルツェンの例にみられるような民族思想の転換も見のがすことはできない。

 総じて48年革命は〈近代の転換点〉としてとらえられ,この革命を契機にそれまで進歩的な意味をもっていた近代の諸概念がその担い手たるブルジョアジーとともに,むしろ保守的反動的なものに転化していった。だがその保守反動のあり方自体もこの革命に規定されていた。革命の敗北の結果として確立したナポレオン3世のボナパルティズムはこの革命から新たな民衆操作のあり方を学んでいたし,再建された反動諸政府ももはや〈社会問題〉への十分な配慮を払うことなしにはその支配を維持できなかった。国民国家的な統一もとくにドイツの場合に顕著にみられるように,革命後は上から強権的に変則的な形でしか実現されえなかった。そして何よりも,この革命においては地域に根ざした土着的な民衆の運動がヨーロッパ全体の歴史的転換に無視しえない影響力を与えたという意味において,歴史における民衆の位置と力に大きな転換をもたらしたことに注目しなければならない。

1847年スイスのゾンダーブント戦争における自由主義諸州の勝利やベルリンの〈ジャガイモ革命〉などがすでに48年革命を予感させていたが,48年に入るとイタリアにおける自由主義運動ないし民族運動がシチリアの首都パレルモの反ブルボン支配の民衆蜂起やナポリにおける憲法要求の大デモなどのような大衆的運動へと発展してくる。そして48年革命は,パリの二月革命によって全ヨーロッパ的なものへと展開する。2月22日〈改革宴会〉の禁止に抗議するパリ民衆の示威行動は〈改革万歳! ギゾーを倒せ!〉と叫び,武装しバリケードを築き,24日には首都の大部分を支配してしまった。国王は退位し,社会主義者を含む臨時政府は25日に共和国を宣言した。武装蜂起の主力であった労働者は〈労働の権利〉と〈労働の組織〉を要求し,臨時政府はやむなく〈リュクサンブール委員会〉(労働者対策委員会)を設置し国立作業場を開設した。労働請負制は廃止され,10時間労働も実現した。こうして革命は最初から社会革命としての性格を持ち,この労働問題への対応がパリの革命の帰趨を決定していった。

 3月,舞台はドイツへ移った。フランスの共和国宣言が伝えられるとただちに西南ドイツの各地で人民集会が開かれ,ケルンでは〈共産主義者同盟〉員に組織された労働者独自のデモも行われた。ナッサウ,バーデン,ビュルテンベルクなどでは封建的賦課の廃止を求める農民の蜂起が起こり,シュレジエンバイエルンなどにも広まっていった。3月13日ウィーンでは学生のデモに市民・労働者が参加し,軍隊との衝突へと発展し,市外の〈プロレタリアート〉の工場襲撃なども加わってメッテルニヒ体制を打ち倒した。集会やデモの続いていたベルリンでは3月18日に事態は市民・労働者と軍隊の全面的衝突に発展し,全市にバリケードを築いて闘った市民・労働者がプロイセン史上初めて常備軍を打ち破った。このウィーンおよびベルリンにおける〈三月革命〉において労働者・小市民層は積極的な役割を果たし,社会革命への期待を抱かせたが,4月以降〈フランクフルト国民議会〉が人々の関心を集めていく。3月5日のハイデルベルク集会,3月30日のフランクフルトの〈準備議会〉を経て5月18日に召集された〈国民議会〉においては結局ガーゲルンらの穏健自由主義者が主導権を握り,〈ドイツ連邦〉との妥協を図りながらもっぱら憲法討議に時間を費やしていく。〈準備議会〉ないし〈国民議会〉を革命機関にしようというヘッカーやシュトルーベなどの急進主義者の提案は否決され,彼らはバーデンにおける武装蜂起に期待をかけたが失敗に終わった。また議会外の運動を結集しようという民主主義者の試み(6月14~16日のフランクフルトにおける第1回民主主義者会議)も一部の地域を除いて必ずしも成功しなかった。マルクス,エンゲルスらの《新ライン新聞》による活動はこうした民主主義者の運動と労働者の運動を結びつける方向を模索していた。

民族運動に目を向けてみよう。プロイセン領ポーゼンのポーランド人の蜂起は民族の独立を目標としていたが,社会改革に対する考え方の相違を克服できずプロイセン軍により鎮圧されてしまった。〈フランクフルト国民議会〉がこの鎮圧を追認し,ポーゼンをドイツ領と認めたことは〈国民議会〉の民族運動への無理解を示すものにほかならなかった。多民族国家であるハプスブルク帝国における民族問題はより複雑で重層的であった。すでに1848年3月3日にハンガリーの下院においてコッシュートが帝国の立憲的社会的改革とハンガリーの完全なる自治を要求する著名な演説を行い,ペシュトの大衆的示威行動の支援を得てそれを皇帝に認めさせた。だが社会改革の面では労働者たちが独自の要求を提示していたし,下層の農民たちの不満も満たされなかった。しかもハンガリー自体が多民族国家として多くの民族問題を抱えていた。スロバキア人やセルビア人の農奴はマジャール人(ハンガリー人)の地主に対して蜂起を起こしていたし,トランシルバニアのルーマニア人も農奴制の廃止,ルーマニア語の使用を求めてハンガリーに敵対していた。クロアチアにおいてもマジャール人地主に対する農民の反感は強く,クロアチア人の総督となったイェラチッチは一方で農民たちの蜂起を抑えながらも,他方でハンガリーからの独立をめざし,そのために皇帝からの命を受けセルビア・クロアチア軍を指揮して革命ハンガリーを攻撃した。こうしてどこにおいても社会問題が民族運動に深くからみ合い問題は錯綜していた。

 ハプスブルク帝国におけるもう一つの重要な民族問題はチェコ人の問題であった。3月11日に始まるプラハの人民集会はチェコ語の公用語化,言論・出版の自由,ボヘミア・モラビアの合同立法議会などを要求,パラツキーの〈フランクフルト国民議会〉あての手紙などにみられるごとく独自のチェコ民族主義を追求していった。だがこのチェコ民族主義はハプスブルク帝国を維持しながらその中でチェコ人の自治を最大限に獲得しようというもので,しかも要求からは労働者の〈労働の権利〉の要求や農民の賦役廃止の要求が抜け落ちていた。このチェコ民族主義者によって6月2日にプラハに招集された〈スラブ人会議〉もハプスブルク帝国の存続を前提とした〈オーストリア・スラブ主義〉を提唱し,帝国解体をとなえるバクーニンらの批判をまねいた。しかもこの会議は6月12日のプラハの急進派の蜂起と,蜂起を鎮圧したウィンディッシュ・グレーツ軍の前になんの成果もなく解散させられてしまった。蜂起には労働者や学生さらに近隣の農民も加わり,民族問題にようやく社会革命の要求をつけ加えたが,反革命の台頭の前に時機を失してしまった。

 ガリツィアのポーランド人は貴族層を中心に3月18日〈ルブフ請願書〉を提出し,農奴制の廃止などの改革を要求したが,それは必ずしも農民の要求に合致するものではなく運動は最初から分裂していた。都市における急進派の運動も孤立しており,4月26日のクラクフの蜂起は簡単に鎮圧されてしまった。しかもガリツィア領内のウクライナ人はポーランド人に対してギリシア正教の平等化とウクライナ語教育を要求して対立しており,ここでも運動は社会問題をめぐって重層化していた。

 イタリアでの自由主義運動は,メッテルニヒの失脚が伝えられると反ハプスブルクの民族戦線へと展開していった。ハプスブルクの支配下にあったベネチアでは市民が武装蜂起し,ハプスブルク軍を追い出し共和国を宣言した。同じくミラノにおける市民とラデツキー将軍との間での激しい市街戦〈ミラノの5日〉は結局市民側の勝利に帰した。こうしてすべての都市に起こった蜂起と農民も参加した義勇軍の参戦の中でサルデーニャ王カルロ・アルベルトも対ハプスブルク解放戦争の先頭に立つことを決意した。ガリバルディマッツィーニなどの亡命者も帰国し戦線に加わり,ここに反ハプスブルク民族戦線が成立した。

1848年3月から4月にかけて革命の社会的性格が明瞭になるにつれていたるところでブルジョアジーは革命に敵対しはじめ,旧勢力も力を取りもどし反革命が台頭してくる。反革命の端緒は資本主義が最も発展し,労働者運動が最も進んでいた国イギリスにおいて開かれた。チャーチスト運動は4月10日ロンドンで請願書の提出にともなう大衆的デモを行おうとしたが,政府はこれを警察,軍隊を結集して実力で阻止する構えをみせた。指導者オコーナーらは結局デモを中止させ,以後運動は衰退してしまう。パリでも5月15日に労働者たちがブランキらの指導下に議会に押しかけ,議会の解散と新政府の樹立を宣言したが軍隊と国民軍に鎮圧されてしまった。同日ナポリにおいては人民蜂起が軍隊によって鎮圧されラッツァローニ(賤民)の略奪にさらされていた。

 48年革命の最も大きな転換は6月であった。17日のウィンディッシュ・グレーツによるプラハの急進派蜂起の鎮圧はその第一歩であった。だが問題の焦点はパリにあった。6月22日政府は国立作業場の閉鎖を宣言し,憤激した労働者たちはバリケードをもってこれにこたえた。23日から26日まで続いた労働者と軍隊・国民軍の闘いはマルクスによってプロレタリアートとブルジョアジーの間の最初の階級的大戦闘とみなされたが,5倍にあまるカベニャック軍の前にプロレタリアートは敗北した。この〈六月蜂起〉の帰趨はヨーロッパ革命にとって決定的であった。反革命は力を得,あらゆるところで革命を押しつぶしていった。北部イタリアではラデツキーの皇帝軍が反撃を開始し,イタリア軍は次々と敗北を喫し,8月6日最後の拠点ミラノが陥落した。同時に南部イタリアにおいてもナポリ王フェルディナンド2世が議会を停止,自由主義者を投獄し,独立を要求したシチリアを5日間にわたり砲撃し〈砲撃王〉と呼ばれた。同じころウィーンでは公共事業労働者の賃金引下げに反対する集会・デモが,革命軍であるべき国民軍によって弾圧され,5月の革命によって成立した急進派の〈公安委員会〉はみずから解散してしまった。

 秋に入ると反革命の展開を阻止すべく第二革命の動きが出てくるが,反革命はそれをも押しつぶしてしまう。8月26日プロイセンはデンマーク領シュレスウィヒ・ホルシュタインのドイツ人の分離運動を見捨てデンマークと〈マルメーの条約〉を結んだ。それを承認した〈国民議会〉に対して起こった9月18日のフランクフルトの蜂起は背景として社会革命を伴っていたが敗北してしまう。一時的に成功したのはウィーンの十月革命であり,革命派は皇帝を追い出しウィーンを再び革命の手に取りもどしたが,ウィンディッシュ・グレーツの皇帝軍とのウィーン攻防戦は労働者の激しい抵抗にもかかわらず反革命の勝利に終わった。この攻防戦においてバリケードを守った労働者の多くがスラブ人であり,それを攻撃した皇帝軍の主力がイェラチッチ軍のスラブ人であったことはハプスブルク帝国における民族運動の複雑な構造を浮きぼりにしていた。残る革命の拠点はハンガリーであった。9月にコッシュートを中心に急進派の〈国防委員会〉が成立し,労働者,農民の支持もえて冬の闘いも乗り切り,49年4月には独立を宣言する。だが革命軍がペシュトを奪回し皇帝軍を国境にまで追いつめたとき,皇帝の要請により反革命の牙城たるツァーリ・ロシア軍が背後から介入し,8月ハンガリー革命も崩壊する。この間,49年2月に教皇を追い出し共和制を形成したローマも7月にフランス,オーストリア軍に敗れ,ドイツにおいてはプロイセン王フリードリヒ・ウィルヘルム4世に拒否された〈国民議会〉の憲法を擁護するザクセン,西南ドイツなどの蜂起がプロイセン軍によって鎮圧されていた。

 こうして革命は敗北した。だが,48年革命のなかで,本当に敗北したのはむしろブルジョア革命の理念であった。労働者,農民の社会革命の理念は,この48年革命においてようやく形成され始めたばかりであった。その意味でこの革命は,フランス革命の延長上よりは,むしろ20世紀の革命の出発点に位置づけられよう。
三月革命 →二月革命
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の48年革命の言及

【ウィーン】より

…とりわけ40年代後半にはいると凶作,失業,食料品の値上がり等によって人々の生活は窮乏化し,農村を離脱したプロレタリア人口がウィーンのリーニエの外縁に貧民街を形成する。この社会問題を背景にして,48年3月ウィーン市民は学生や労働者と共に憲法制定,国民軍設置,検閲の廃止等を要求して蜂起し,メッテルニヒ体制を打倒する(48年革命とよばれる)。こうして同年3月から秋にかけてウィーンには実質的に市民のコミューンが成立する。…

【コッシュート】より

…47年の最後の身分制議会でも議員となり,反政府派の指導者として台頭。48年のパリ二月革命の報を聞いて,3月3日にハプスブルク帝国の改革を求める演説を議会で行い,その後ペテーフィらの急進的知識人の運動と合流して,ブダペストの三月革命を指導した(48年革命)。ブルジョア的変革を盛り込んだ〈三月法令〉の作成に寄与。…

【ドイツ】より

…48年の三月革命の過程でいわゆる小ドイツ主義が力を得たのも,経済力に裏打ちされたプロイセンの自己改革能力に対する期待があったからこそのことである。 1848‐49年の革命(48年革命)の決算は二様に評価しうる。農民解放など社会経済体制の近代化のための改革は,19世紀初頭の改革の時代に始まって,この革命によって立法上の完結を見た。…

【リソルジメント】より

…ジョベルティの書はイタリアのナショナルな運動とカトリシズムとの調和を図ろうとする性格をもち,イタリア文化の一部に根づいているネオゲルフィズムneoguelphism(教皇の保護のもとでのイタリアの自由と独立という思想)を表明したものであった。
[48年革命]
 1848年はヨーロッパ各地に革命の波が広まり,諸国民の春と呼ばれているが,イタリアでも1月のシチリア島パレルモの反乱を皮切りに諸国で革命が継起し,憲法の発布と議会の開設がみられた。また3月,ミラノの5日間の蜂起でオーストリア軍が追放されたのをきっかけに,サルデーニャ王国がロンバルディアに軍隊を派遣して独立戦争を始めた。…

※「48年革命」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

仕事納

〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...

仕事納の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android