篠村庄
しのむらのしよう
篠村八幡宮付近にあったと考えられる。
「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月二六日条によれば、平重衡の所領であった所で、その後平家没官領として源義経の手に渡り、義経から京都松尾の延朗に寄付されたことが明らかである。
<資料は省略されています>
延朗は荘民を哀れみ、年貢を取らず念仏を唱えしめたというものであるが、これについては「元亨釈書」にも「源廷尉義経、以波州篠村庄、為朗衣盂資、朗拒焉、廷尉強之、不得已而受、然不課税、先免三年租、後或有輸者、朗曰、衆民之中、若唱一万弥陀之号、免一石之祖、以故民家殷富、戴朗恩恵云々」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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