日本歴史地名大系 「佐伯庄」の解説
佐伯庄
さいきのしよう
- 大分県:佐伯市
- 佐伯庄
古代の海部郡
興国元年(一三四〇)八月一七日、南朝方の五条頼元は使者を佐伯に案内するよう阿蘇惟澄に伝えている(「五条頼元書状写」阿蘇家文書)。一方、北朝方では暦応四年(一三四一)当庄領家職を戸次頼時に預けている(四月二二日「宗栄書状写」薩藩旧記雑録所収伊知地文書)。貞和二年(一三四六)五月一七日、足利尊氏は佐伯山城守(惟賢か)跡の当庄地頭職を角違一揆に宛行っている(「足利尊氏袖判下文案」大友家文書録)。正平二年(一三四七)一一月九日、懐良親王は当庄地頭職を南朝方の武士に分配することとしている(「征西将軍宮令旨案」阿蘇家文書)。応安四年(一三七一)一一月一四日、
大友政親と嫡子親豊(義右)は一族大聖院宗心の画策によって対立するようになり、親豊は佐伯に退いている(六月二三日「大友政親書状」三代文書ほか)。政親・親豊父子が明応五年(一四九六)に没した後、宗心と田原・佐伯両氏は永正三年(一五〇六)に
佐伯庄
さえきのしよう
佐伯郷(和名抄)に成立した荘園と考えられる。江戸時代の
佐伯庄の成立については、寿永二年(一一八三)二月日付建礼門院庁下文案(田中忠三郎氏所蔵文書)に
とあり、これによれば寿永元年秦頼康が佐伯郷内の時武名を高倉院法華堂領として寄進したが、不輸租とされなかったのでこの年改めて申請し、国司庁宣によって不輸とされ、勅事・院事・国役等を停止されたものであった。ここではまだ荘号がみられないが、これからのちに佐伯庄となったと考えられる。
荘名は東寺文書の正中二年(一三二五)三月日付の注進状に「最勝光院注進寺領庄園年貢所済出物散状事、一丹波国佐伯庄、領家松橋僧正、本年貢近年両月分代銭一貫五百外無済」とみえる。
佐伯庄
さえきのしよう
佐伯庄
さえきのしよう
佐伯庄
さえきのしよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報