醍醐寺(読み)ダイゴジ

デジタル大辞泉 「醍醐寺」の意味・読み・例文・類語

だいご‐じ【醍醐寺】

京都市伏見区にある真言宗醍醐派の総本山。山号は深雪山・笠取山。開創は貞観16年(874)、開山は聖宝。笠取山全山が寺域で、准胝じゅんでい堂や如意輪堂などのある山上をかみ醍醐、三宝院・金堂・五重塔のある山麓をしも醍醐という。江戸時代、三宝院は修験道当山派の拠点だった。国宝の五重塔は創建当初のもので、京都における最古の塔。ほかに多数の国宝・重要文化財・古文書を所蔵。平成6年(1994)「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録された。

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精選版 日本国語大辞典 「醍醐寺」の意味・読み・例文・類語

だいご‐じ【醍醐寺】

  1. 京都市伏見区醍醐伽藍町にある真言宗醍醐派の総本山。山号は深雪山。貞観一六年(八七四)聖宝(しょうぼう)が准胝(じゅんてい)堂と如意輪堂を建てたのにはじまる。延喜七年(九〇七醍醐天皇の勅願寺となり、伽藍が造営された。文明二年(一四七〇)兵火にかかり諸堂の大半を焼失したが、慶長年間(一五九六‐一六一五豊臣秀吉の帰依をうけ、義演が再興。五重塔・金堂・清滝宮拝殿などの建造物のほか、五大尊像、閻魔天像、大日経開題(弘法大師筆)など一六点が国宝に指定されている。上醍醐の准胝観音堂は西国三十三所の第一一番札所。

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日本歴史地名大系 「醍醐寺」の解説

醍醐寺
だいごじ

[現在地名]伏見区醍醐伽藍町

山科やましな盆地の南方、笠取かさとり(醍醐山)山上から山麓に至る広い地域に位置し、一般に山上を上醍醐かみだいご、山下を下醍醐と称する。山号は豊臣秀吉命名の深雪山。真言宗醍醐派総本山、本尊薬師如来。旧奈良街道に面した総門を入ると桜の馬場であり、これに面して北に三宝さんぼう院の建物が立並び、南には醍醐寺の数多くの宝物を収蔵する霊宝館がある。さらに理性りしよう院・報恩ほうおん院・光台こうだい院の三院がある。仁王門を経て山内に入ると北に金堂・鐘楼があり、南方に日本有数の名塔五重塔がある。醍醐寺のほかの建築物はみな何度かの火災に見舞われたが、五重塔は唯一焼亡を免れて現存している。ほかに不動堂・祖師堂・大講堂がある。山上には、准胝堂(昭和四三年新造)・如意輪堂(慶長一一年建造)・五大堂(昭和一五年新造)・薬師堂(保安二年の建立で上伽藍最古)のほか、開山堂・清滝きよたき宮などがある。当寺は平成六年(一九九四)世界の文化遺産(古都京都の文化財)に登録された。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔草創・古代〕

貞観じようがん(現伏見区)の真雅(空海弟子)の弟子聖宝(諡号理源大師)奈良東大寺の戒壇に登り、その後同寺、元興がんごう(現奈良市)などで華厳・法相・三論の宗学を学び、また諸国行乞の旅を重ねて山岳金剛葛城こんごうかつらぎ大峯おおみねなどでの練行を積んだ後、貞観一六年(八七四)笠取山の山上に准胝・如意輪の二観音を奉安し、草庵を営んだことに始まるとされる。同一八年には准胝・如意輪観音開眼供養が行われたというが(醍醐寺縁起)、「源運僧都記」は同一九年とする。また延喜一三年(九一三)一〇月二五日の太政官符(醍醐寺要録)では、醍醐寺草創を貞観末としている。同七年醍醐天皇の勅願寺となり、以後飛躍的に発展。「醍醐根本僧正略伝」に「延喜七年、以醍醐寺、為御願寺」とみえ、また前掲同一三年の太政官符に「既至于延喜七年僧正奉勅、初於此寺奉行御願造仏像事」とある。聖宝は同九年七月六日貞観寺宿院普明ふみよう院で没するが、生前に准胝堂・如意輪堂・延命院・五大堂・薬師堂を建立。このうち五大堂・薬師堂は醍醐天皇御願堂である。なお、草創期、笠取山一帯は宇治うじ郡大領であった宮道弥益が領していた。弥益の娘列子が藤原高藤の妻となり、所生の胤子はのち宇多天皇の女御となり醍醐天皇を生んでいる(「今昔物語集」など)。これらから当寺の創建と発展は宮道氏の外護があったとみられる。

聖宝没後は、直弟子観賢に引継がれ、観賢は「醍醐寺新要録」に「御影堂三間四面、延喜十一年観賢僧正建立之、延喜十二年トモ見タリ」とある、聖宝御影を安置する御影堂を建立した。


醍醐寺
だいごじ

[現在地名]福知山市字猪崎

猪崎いざきの集落から北方約二キロのからすヶ岳の麓にあり、集落から参道がある。山号木塔山、臨済宗南禅寺派、本尊薬師如来。

足利尊氏が後醍醐天皇追善のために創建したと伝え、当寺所蔵の醍醐寺并末寺略伝に

<資料は省略されています>

とある。ただし寺額の花押は義詮ではなく義教のものとされる。「丹波志」は、

<資料は省略されています>

と記す。また「横山硯」によれば、足利尊氏が京都で敗北、三光国師を伴って丹波路へ落ち延びる途中、船井郡檜山ひのきやま(現瑞穂町)から天田郡大原おおばら(現三和町)へ向かい、大原神社で武運長久を祈願し、そこから印内いんない村へ入り奄我あんが庄の奥山の麓に下りると地蔵堂があった。四神相応の地なので、

<資料は省略されています>

その後、尊氏は弟直義をこの地へ遣わし普請奉行として建築に着手した。


醍醐寺
だいごじ

[現在地名]大野町酒井寺 門前

酒井寺さかいじ川東岸にある。法沢山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は釈迦如来。古くは大護だいご寺もしくは酒井寺と称した(元亨四年二月三日「大野庄中村大護寺院主代如一田地相博状」天理図書館蔵三聖寺文書)。酒井寺の名は寺の傍らに車輪大の酒井があることにちなむとされる。井は霊亀年間(七一五―七一七)孝女のために流出した酒泉と伝えている。創建は、天平勝宝四年(七五二)遍歴中の釈正覚が酒泉を霊区とし、一宇を建てたことに始まるという(豊後国志)


醍醐寺
だいごじ

[現在地名]浅井町醍醐

真言宗豊山派で、山号は神護山。下草野しもくさの五山の一つで、本尊は不動明王。役小角の開創と伝え、大永元年(一五二一)根来ねごろ(現和歌山県岩出町)の覚遍が中興開山となったという。観応二年(一三五一)九月一一日「江州醍醐寺」にあった足利尊氏が霊夢をみたとして、松尾まつお大社(現京都市西京区)に法楽の和歌を講じており(東文書)、文和二年(一三五三)一月二二日、当寺の誂賢智房が底哩三昧耶経の上・中・下巻を書写している(第九回大蔵会陳列目録)。永享一一年(一四三九)には長浜ながはま八幡宮(現滋賀県長浜市)の塔供養として二貫文を寄進した(同年四月二五日「奉加帳」東浅井郡志)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「醍醐寺」の意味・わかりやすい解説

醍醐寺
だいごじ

京都市伏見(ふしみ)区醍醐伽藍(がらん)町にある真言(しんごん)宗醍醐派の総本山。深雪(しんせつ)山または笠取山と号する。本尊は薬師如来(にょらい)。笠取山全山が寺域で、山上を上(かみ)醍醐、麓(ふもと)を下(しも)醍醐といい、上下醍醐に八十余棟の堂塔が配置されている。貞観(じょうがん)年間(859~877)理源(りげん)大師聖宝(しょうぼう)が山上に草庵(そうあん)を建てたのが始まりで、続いて准胝(じゅんてい)堂、如意輪(にょいりん)堂が建立された。さらに904年(延喜4)山下に釈迦(しゃか)堂、907年(延喜7)山上に薬師堂と五大堂が聖宝に帰依(きえ)した醍醐天皇によって建立され、定額寺(じょうがくじ)となった。919年、座主三綱(ざすさんごう)が置かれ、観賢(かんけん)が第1世座主に補任(ぶにん)された。続いて朱雀(すざく)天皇は949年(天暦3)法華三昧(ほっけざんまい)堂を建立し、村上(むらかみ)天皇は醍醐天皇追福のため952年(天暦6)五重塔を建立するなど寺運隆盛に向かい、その後の諸天皇も当寺に帰依し、大伽藍の完成をみるに至った。永久(えいきゅう)年間(1113~18)第14世勝覚のとき三宝院(さんぼういん)が建立され、ついで理性(りしょう)・金剛王(こんごうおう)・無量寿(むりょうじゅ)・報恩(ほうおん)の四院も建ち、醍醐五門跡と称された。以来多くの学僧が入山し、盛時には醍醐全山の伽藍坊舎甍(いらか)を並べた壮大さであった。初めは五門跡の高僧が交替で当寺の座主を務めたが、黒衣の宰相(さいそう)とよばれた満済(まんさい)が、応永(おうえい)年間(1394~1428)三宝院門跡となり、足利(あしかが)氏の信任を得て寺門の興隆に尽くして以来、三宝院門跡が醍醐寺座主を兼ねるのが通例となった。1470年(文明2)、兵火によって五重塔を残しことごとく焼失したが、時の座主義演(ぎえん)が豊臣(とよとみ)秀吉の帰依を受けて再興し、1598年(慶長3)に秀吉は醍醐の花見を催すなどして旧観を取り戻した。江戸時代には徳川氏も当寺を保護し、寺領を寄進した。また当寺は三宝院を中心として修験道(しゅげんどう)当山派の本拠地とされてきたが、明治維新後、修験道が廃止され、醍醐寺は真言宗に帰入された。

[眞柴弘宗]

諸堂・塔頭

上醍醐には、当寺最初の堂である准胝観音(かんのん)堂(現堂は1968年の再建)があり、本尊准胝観音が安置され、西国三十三所第11番札所として著名である。薬師堂(国宝)は1121年(保安2)再建のものであるが、平安時代の気風を伝え、会理僧都(えりそうず)作と伝える本尊薬師如来および両脇侍(きょうじ)像(ともに国宝)が安置されている。また1434年(永享6)に再建の一山の鎮守清滝宮(せいろうぐう)拝殿(国宝)と本殿(国重要文化財)があり、ほかに五大明王を祀(まつ)る五大堂、如意輪堂、開山堂などがある。仏に供える水をくむ醍醐水閼伽井(あかい)があり、醍醐寺の名のおこりともいう。

 下醍醐は、総門を入ると桜並木があり、仁王門に至る。この道の左右に三宝院、宝聚(ほうじゅ)院(霊宝館)がある。仁王門の奥が下醍醐の伽藍で、五重塔、金堂(いずれも国宝)などがある。五重塔は京都における現存最古の建築。初層塔内には壁画17面(国宝)があり、両界曼荼羅(まんだら)図、真言八祖像、唐草文(からくさもん)などが、心柱囲板(かこいいた)、連子窓(れんじまど)裏板、腰羽目板、天井や梁(はり)に描かれており、近年の解体修理で四天柱と扉にも絵があることが確認された。金堂は創建の位置に1600年(慶長5)豊臣氏が和歌山県満願寺の堂を移したもので、本尊薬師三尊像は国重要文化財。ほかに御影(みえい)堂、清滝権現(ごんげん)堂、女人堂などがある。

 現存する塔頭(たっちゅう)寺院には三宝院、報恩院、理性(りしょう)院、光台(こうだい)院、無量寿院、金剛王院、岳西(がくさい)院、成身(じょうしん)院などがある。三宝院の現在の殿舎は1598年に起工され、表書院(国宝)、玄関、勅使の間、秋草の間、葵(あおい)の間、宸殿(しんでん)、庫裡(くり)、純浄観、護摩堂(以上、国重要文化財)よりなる。表書院を中心に各渡廊でつながれ、各室の壁、ふすまなどは彩色画が描かれ、奥書院(寝殿)上段の間の違い棚は醍醐棚とよばれる桃山時代の遺構。庭園は特別名勝・史跡指定の名園。1994年(平成6)、醍醐寺は世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。京都の文化財は清水寺など17社寺・城が一括登録されている)。

[眞柴弘宗]

寺宝・行事

紙本着色絵因果経、絹本着色五大尊像、同閻魔(えんま)天像、同文殊渡海(もんじゅとかい)図などの国宝のほか、紙本墨画密教図像39点、大日金輪(こんりん)像、仁王経(にんのうきょう)曼荼羅図などの絵画、金銅仏具などの工芸品、彫刻など国重要文化財は非常に多い。また三宝院には絹本着色訶梨帝母(かりていも)像(国宝)がある。宝物の多くは現在宝聚院に収蔵されている。おもな年中行事に五大力尊仁王会(ごだいりきそんにんのうえ)(2月23日)、太閤(たいこう)花見(4月第2日曜)がある。

[眞柴弘宗]

『『古寺巡礼 京都3 醍醐寺』(1976・淡交社)』『浜田隆編『醍醐寺と仁和寺・大覚寺』(『日本古寺美術全集14』1982・集英社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「醍醐寺」の意味・わかりやすい解説

醍醐寺 (だいごじ)

京都市伏見区にある真言宗醍醐派の総本山。深雪山と号する。874年(貞観16)に聖宝(しようぼう)が創建。のちに上醍醐と呼ばれるようになった笠取山の山頂に,如意輪・准胝両観音を安置する堂宇を建てたことに始まるとされる。当時笠取山の西麓一帯に住みついていた宮道氏は,その娘が藤原高藤の妻となり,その間に生まれた胤子が醍醐天皇の母となったために,勢力を増した。醍醐寺の創建と発展は,宮道氏と関係があるものと思われる。907年(延喜7)山頂の小さな寺は醍醐天皇の勅願寺となった。聖宝の没後,門弟の観賢が初代の座主となり,やがて笠取山のふもとに下醍醐の大伽藍の造営が始まった。952年(天暦6)に落成した五重塔は,京都府に現存する最古の建築として知られている。醍醐寺は,東大寺と密接なつながりをもって発展し,東密小野流の中心,三論宗の教学の拠点として重んぜられた。平安時代末には白河上皇の帰依を受けて勝覚,勝賢らが活動し,鎌倉時代の初めには重源が宋版一切経を施入するなど,仏教の新しい動きも受けいれ,深賢,親快らの学僧を出した。大寺院となった上下の醍醐寺には,三宝院,報恩院をはじめ多数の塔頭(たつちゆう)があったが,室町時代初頭に三宝院門跡で座主となった賢俊,満済は,足利氏の厚い帰依を受けて寺勢の発展に尽くした。その後,応仁の乱の兵火で伽藍のほとんどを焼失,寺領も失ったが,近世初頭の座主として名高い義演が豊臣秀吉の援助によって三宝院を再興し,荒廃していた境内を復興した。秀吉が醍醐寺で盛大な花見の宴や茶会を開いたことは広く知られている。

 醍醐寺は早くから修験道の中心となっていたが,室町時代には当山派修験道の拠点として,本山派の聖護院と勢力を競うようになった。明治時代には仏教界の混乱のなかで動揺したが,1900年に真言宗醍醐派として独立,また神仏分離によって壊滅状態に陥っていた修験道の復興の中心となって現在に至っている。現在,三宝院門跡が醍醐寺座主の地位につき,醍醐派管長を兼ねて,850余の同派寺院を率いている。

 醍醐寺は,建築,庭園,彫刻,絵画,典籍,古文書など数々の寺宝を有する文化財の寺であり,参観者も多いが,上醍醐の准胝観音は西国三十三所第11番の札所として参詣者を集め,2月の〈五大力さん〉,4月の清滝大権現例祭,豊太閤花見行列,6月の大峰花供入峰をはじめとする数々の行事を通じて信仰の中心として知られ,修験系統の数多くの講組織の活動も盛んである。
執筆者:

下醍醐の伽藍では五重塔(952,国宝)が唯一創建当初のもので,本瓦葺き。総高の3分の1を占める相輪,均衡のとれた屋根逓減率,太い木割など安定感のある外観をもつ。初重内部に描かれた両界曼荼羅図をはじめとする壁画は,平安時代絵画史上の好資料である。金堂(国宝)は紀州湯浅から移建して1600年(慶長5)に竣工したもので,平安末期の様式をよく残しており,当時の遺構のうちではもっとも大規模なものである。上醍醐伽藍中最古の建物は薬師堂(1124,国宝)で,内陣の蟇股は時代の特色をよく表し,本尊薬師三尊像(国宝)も量感豊かな一木造の平安仏。清滝宮(せいろうぐう)拝殿(1434,国宝)は急斜面に建つ懸造で,住宅風の外観をもつ。寺宝類は多く,絵画では日本に現存する4巻中もっとも優れた《過去現在因果経(絵因果経,報恩院本)》(奈良時代),《五大尊像》(平安後期~鎌倉初期),《閻魔天像(えんまてんぞう)》《文殊渡海図》(ともに鎌倉時代)などの国宝があるが,39点に及ぶ白描の《密教図像》(平安後期~鎌倉,重要文化財)は,密教図像研究上,欠くことのできない貴重な資料である。書跡では伝弘法大師筆〈狸毛筆奉献表〉などが国宝である。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「醍醐寺」の意味・わかりやすい解説

醍醐寺【だいごじ】

京都市伏見区醍醐伽藍(がらん)町にある真言宗醍醐派の総本山。本尊薬師如来。874年聖宝(しょうぼう)が上醍醐に開創,907年醍醐天皇のとき勅願寺として伽藍を整備,その後山下に釈迦堂をはじめとして下醍醐の堂塔が造立され真言宗小野流の中心として栄えた。主院である三宝(さんぼう)院は1115年勝覚が開創,満済以後三宝院門跡が醍醐寺一山の座主(ざす)になる慣例となった。応仁・文明の乱で焼失し荒廃したが,桃山時代に義演が豊臣秀吉の帰依を受け,有名な醍醐の花見(1598年)を機に復興,このころから三宝院は修験道の本山となり,宗教活動の中心は修験道に移った。醍醐寺はあざやかな彩色画を内部に施した平安期の五重塔,秀吉が紀州から移築した金堂や桃山時代の特色を伝える三宝院の殿堂等の建物のほか,彫刻,絵画,工芸等古美術の宝庫として知られ,特に図像粉本類の収集は有名。1994年世界文化遺産に登録。
→関連項目安食荘石黒荘牛原荘大野荘(石川)柏原宿金丸荘義演准后日記京都[市]久多荘古都京都の文化財(京都市,宇治市,大津市)金堂西国三十三所聖護院吹田走湯山曾禰荘醍醐醍醐寺文書得蔵保鳥養牧長尾荘畠山満家伏見[区]船木荘満済准后日記文観山伏

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「醍醐寺」の意味・わかりやすい解説

醍醐寺
だいごじ

京都市伏見区にある真言宗醍醐派の総本山。貞観 16 (874) 年空海の法孫聖宝 (しょうぼう) が山上の上醍醐の地に堂舎を創建したのが始りで,延喜7 (907) 年勅願寺,同 13年に定額寺となった。山下の下醍醐は延喜末年から伽藍の造営が始り,承平1 (931) 年金堂,天暦6 (952) 年五重塔 (国宝) が完成。永仁,文明期に五重塔を除く下醍醐の諸伽藍が灰燼に帰したが,のち豊臣秀吉の援助で再興。また修験道当山派の本山となり,本山派の聖護院とともに大峰山伏の本拠として勢力を誇った。文化財としては五重塔およびその内部の壁画『両界曼荼羅』,『真言八祖像 (→真言七祖像 ) 』をはじめ,薬師堂,金堂,清滝宮拝殿などの国宝建造物があり,仏像では『薬師如来及両脇侍像』,絵画では奈良時代の『絵因果経』,平安時代後期の『閻魔天像』『五大尊像』,鎌倉時代の『文殊渡海図』 (以上国宝) ,桃山時代の狩野山楽筆『花鳥図』襖絵,俵屋宗達筆『舞楽図』などがある。また下醍醐の三宝院は桃山時代建造の表書院の南に庭を配して著名である。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「醍醐寺」の解説

醍醐寺
だいごじ

京都市伏見区にある真言宗醍醐派の総本山。深雪山と号す。874年(貞観16)聖宝(しょうぼう)が笠取山上(上醍醐)に堂宇をたてたことに始まる。907年(延喜7)醍醐天皇の御願寺となった。山麓(下醍醐)に伽藍の建設が進められ,952年(天暦6)五重塔(国宝)が完成。平安後期には東密小野流の拠点となり,白河上皇らの帰依をうけて大寺院に発展した。三宝院・理性院など多数の子院が建立される一方,当山派修験の道場としても勢力を拡大した。しかし応仁・文明の乱の兵火をうけて衰退。豊臣秀吉の庇護を得た義演により復興された。上醍醐の本尊薬師如来三尊像をはじめ「絵因果経」「文殊渡海図」(いずれも国宝)など多数の寺宝を蔵する。境内は国史跡。

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旺文社日本史事典 三訂版 「醍醐寺」の解説

醍醐寺
だいごじ

京都市伏見区にある真言宗醍醐派の総本山
874年聖宝 (しようぼう) が創建。907年醍醐天皇の勅願寺となった。盛時には堂塔諸院80に及んだ。中世には真言派山伏をこの寺の三宝院で統制。室町時代には満済 (まんさい) が三宝院門跡となって隆盛を誇った。数度の火災にあい古い建物は少ないが,五重塔および内部の壁画は10世紀の遺物。

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デジタル大辞泉プラス 「醍醐寺」の解説

醍醐寺

京都府京都市伏見区にある寺院。真言宗醍醐派総本山。山号は深雪(しんせつ)山、または笠取山。874年開創。本尊は薬師如来。豊臣秀吉が1598年に催した「醍醐の花見」で有名。国宝の五重塔など、数多くの文化財を保有。「古都京都の文化財」の一部としてユネスコの世界文化遺産に登録。

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事典 日本の地域遺産 「醍醐寺」の解説

醍醐寺

(京都府京都市伏見区醍醐東大路町22)
美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。

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事典・日本の観光資源 「醍醐寺」の解説

醍醐寺

(京都府京都市伏見区)
さくら名所100選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の醍醐寺の言及

【義演】より

…安土桃山時代の僧。醍醐寺座主,三宝院門跡。東寺長者を兼ねる。…

【賢俊】より

…鎌倉末~南北朝初期の僧侶。第65代醍醐寺座主,菩提寺僧正と号す。権大納言日野俊光の子で,三宝院賢助を師として出家。…

【三宝院】より

…京都市伏見区にある醍醐寺の子院。修験道当山派の本山でもあり,室町時代以降醍醐寺全山の中心として重んぜられた。…

【醍醐寺新要録】より

…醍醐寺が創建された平安初期から1608年(慶長13)ころまでの醍醐寺関係の史料を類聚編纂した書。全22巻。…

※「醍醐寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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