…食管法の起点となった米穀法が制定された1921年は米騒動の4年後ではあったが,一方では国民1人当り米消費量のピークへの到達と,他方では国産米生産力増強とともに,植民地朝鮮・台湾での米移出力の強化によって,供給過剰による内地米の価格低下が問題とされ,政府による米穀の売買・加工・貯蔵,輸入税の増減,輸出入の制限等を通じて,米穀の数量調節を行い,米価暴落の防止が目指された。これ以後,昭和農業恐慌対策としての31年の米穀法改正(米穀輸出入の許可制,安定価格帯制度の導入),33年の米穀統制法(最低価格による政府の無制限買入義務),36年の米穀自治管理法(過剰米の市場供給制限のための産地貯蔵)など,38年までは米穀の市場流通を前提とした間接統制を通じた過剰対策が主眼となっていた。 しかし,37年に開始する日中戦争の影響による国内生産縮小,朝鮮・台湾での消費増加による移入量減少は39年に米需給を一挙に迫基調に転換させ,米穀政策は米穀配給統制法(米穀取引所廃止,米穀商の許可制)・価格等統制令(米価公定)制定を通じて不足対策に転換する。…
…当初,米輸入関税として始まり,大正年間に米価調節政策として展開された食糧政策は,結局,植民地米増産を中心とする食糧自給政策と米穀法(1921公布)による価格調節・安定策として完成する。米穀法は米穀統制法(1933公布)へと引き継がれ,1935年ころまでの農村恐慌期,米過剰期には米価の一定の引上げ,安定のために機能した。しかし以後,戦時経済,米不足の時代には,食糧管理法へと引き継がれ,米価抑制と生産者からの供出の確保,消費者への最低量の公平な配給のために機能した。…
…それは米騒動以後強められて21年の米穀法(政府が自由市場で米の売買操作をして,間接的に米価の変動を調節する)によって恒久化した。完全に自由放任の米価はそれ以後なくなり,公定価格を定め政府が無制限に米を買い入れる米穀統制法(1933)をへて,米価統制は42年,米の供出・配給制と公定米価を定めた食糧管理法によって流通米全量に対する国家管理として完成した。以後,第2次大戦の戦時下と戦後長く米価はあらゆる段階で公定されるようになった。…
※「米穀統制法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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