綺庄
かばのしよう
古代の蟹幡郷(和名抄)に立荘されたと考えられる大和興福寺領で、近世の綺田村域に比定される。
立荘の経緯は不詳だが、建暦三年(一二一三)のものとされる尊玄書状案(東大寺所蔵探玄記第十七巻義決抄裏文書)に「綺庄民等堀棄
示之事也、而彼綺庄依唯殿下御領、不及訴申子細候也、而召彼御庄民等中不当輩一両、同意綺庄民等、猥早出訴訟候也、山僧等不譲候、(後欠)」とみえ、当荘の東方山中にあり、奈良東大寺と関係の深い光明山寺との間に境界をめぐる争いを起こしている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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