山城町(読み)やましろちよう

日本歴史地名大系 「山城町」の解説

山城町
やましろちよう

面積:一三一・五九平方キロ(境界未定)

郡の南西端に位置し、東は吉野川を挟み池田いけだ町・西祖谷山にしいややま村、南は高知県長岡ながおか大豊おおとよ町、西は愛媛県宇摩うま新宮しんぐう村、北は池田町。吉野川左岸の山間部を占める。吉野川は大歩危おおぼけ小歩危こぼけ鮎戸あど瀬などの峡谷をつくって北流し、町内で藤川谷ふじかわだに川、白川谷しらかわだに川、伊予いよ(銅山川)が合流する。吉野川に沿い国道三二号・JR土讃線が通る。東流する伊予川に沿っては国道三一九号、白川谷川に沿っては県道粟山あわやま殿野とのの線、藤川谷川に沿って県道上名かみみよう西宇にしう線が通る。吉野川と伊予川の合流点川口かわぐち地区が町の中心部となっている。


山城町
やましろちよう

面積:二四・七六平方キロ

相楽郡の西部に位置し、東は加茂かも町・和束わづか町、西は木津きづ川を隔てて精華せいか町、南は同じく木津町に接する。東部は三上さんじよう山をはじめとする山地・丘陵で、西部の木津川流域は平地である。しぶ川・天神てんじん川・不動ふどう川・鳴子なるこ川が東部山地から西流し、平地で天井川を形成して木津川に注ぐ。中央部を国鉄奈良線と国道二四号が南北に貫通し、南端を国道一六三号が東西に走る。町南端の上狛かみこま南部は緑茶などの集散加工で知られる。

明治二二年(一八八九)町村制施行により椿井つばい村・北河原きたがわら村・神童子じんどうじ村を合して高麗こうらい村、綺田かばた村・平尾ひらお村を合して棚倉たなくら村が設置され、上狛村はそのまま上狛村として存続した。上狛村は大正一五年(一九二六)町制を施行。


山城町
やましろちよう

東山区大黒町通松原下ル二丁目

大黒町だいこくまち通に位置。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には「此町南の辻を東へ行ば建仁寺町辻へ出る也」とあり、天保二年(一八三一)刊「京都巡覧記」には「宮川筋東三筋メ(中略)(北御門町)下る町山城町」とある。

「坊目誌」が「京都府地誌」に「元北御門町ノ内ナリ。元禄六年九月。割テ壱町ヲ置く」とあるのに従って、「元禄六年割て本町を置く」とするのは誤りで、寛永一四年(一六三七)洛中洛外惣町数人家数改日記(「半日閑話」所引)に、既に「同(建仁寺南)門前山城町」と明記され、次いで、延宝二年(一六七四)四方洛外町続之町々小名之覚(荻野家文書)にも建仁寺けんにんじ門前の一町として山城町の名をみる。


山城町
やましろちよう

[現在地名]中央区銀座ぎんざ六―七丁目

筑波つくば町の南にある片側町。東は加賀かが町、南は喜左衛門きざえもん町、西は外堀沿いの道に面していた。町名は慶長八年(一六〇三)の江戸市街改修の折に、一千石に一人の割で役夫を出した国の名から付けられたとも(徳川実紀)、また幕府用達釜師谷山城という者が居住していたために付いたともいう(京橋繁昌記)。寛文新板江戸絵図に「山しろ丁」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典 日本の地域遺産 「山城町」の解説

山城町

(徳島県三好市山城町)
怪遺産」指定の地域遺産(2008(平成20)年(第2回))。
こなきじじい、からす天狗など20種類近くの妖怪伝説が残り、妖怪祭りなどが行われている

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

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