日本大百科全書(ニッポニカ) 「耽羅」の意味・わかりやすい解説
耽羅
たんら
朝鮮半島の南方海上に位置する済州島(さいしゅうとう)の古名。耽牟羅(たんむら)、忱弥多礼(とむたれ)ともいう。『日本書紀』古訓は「耽羅(とむら)」。『唐会要(とうかいよう)』耽羅条には「王姓は儒李、名は都羅。城隍(じょうこう)無し。分かれて五部落を作(な)す」「戸口八千有り」「文記無く、唯(ただ)鬼神に事(つか)ふ。常に百済(くだら)に役属す」とあり、『高麗(こうらい)史』耽羅県条には三神人が地から生じ、その妻となった3女性は日本の王の娘で、駒(こま)や犢(こうし)、それに五穀の種も日本から送られたものであったと伝えている。耽羅が史上に名を知られるのは、475年に百済が高句麗(こうくり)に敗れ、熊津(くまなり)(「ゆうしん」とも読む。現、忠清南道公州)に南遷してからのことである。476年、耽羅が百済に通じると、喜んだ百済は使者に恩率(百済の位階。16品の中の第3品)を贈り、以後、耽羅は百済に服属し、王は百済から与えられた佐平(さへい)(第1品)の号を称した。百済滅亡後は日本にも通じたが、『三国史記』には、662年に耽羅国主佐平徒冬音律(津とも)が新羅(しらぎ)に来降したとある。新羅滅亡後は高麗に臣属した。済州は高麗時代の命名。
[坂元義種]
『筧敏生著「耽羅王権と日本」(『続日本紀研究262』所収)』