日本歴史地名大系 「聚楽村」の解説
聚楽村
じゆらくむら
北と東は上京の町地、南は
古くは、平安京大内裏の
天正年間(一五七三―九二)、豊臣秀吉によって造営された聚楽第の南西部にあたり、聚楽廻とも称された(山城国高八郡村名帳)。
元禄一三年(一七〇〇)の山城国郷帳には「聚楽町」と記載され、六七四石四斗一升三合余とみえる。享保一四年(一七二九)山城国高八郡村名帳では「聚楽廻り」として五一〇石三斗五升八合余で、内訳は伏見宮領三三一石三斗六升余、広橋家領四二石三斗六升余、松梅院領一八石六斗二升八合余、相国寺領六七石四斗六升七合余、本光院領五石五斗六升余、建仁寺領三〇石四斗九升三合余、清水寺領七石一斗六合余、富小路家領一石六斗五升二合余、南禅寺領三石二斗三升、養命坊領二石四斗六升七合、福寿院領八升五合となっている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報