若狭町村学校所跡
わかさまちむらがつこうしよあと
近世の若狭町村の松山側、若狭町大道に面していた。大道を西へ少し行くと夷堂があった。創立年は不明。最初に設立された泉崎村学校所が一八二四年の創立なので、その後となる。「琉球藩雑記」によると教師は真栄田通事親雲上、生徒数八二人とある。近世末期、異国船が頻繁に渡来した際、若狭町村学校所は那覇公館として接見・交渉の場所となっていた。ちなみに泊村学校所が泊公館であった。そのため評定所文書の異国船来着日記にも頻繁に登場する。一八五四年のペリー提督との琉米条約も当所で締結されている(「亜人成行御国許江御届之控」評定所文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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