若狭町村(読み)わかさまちむら

日本歴史地名大系 「若狭町村」の解説

若狭町村
わかさまちむら

[現在地名]那覇市若狭わかさ一―三丁目・松山まつやま一―二丁目

那覇の北部に位置。那覇四町の一。東は久茂地くむじ村、西は海に面し、南東久米村くにんだ、南西はちーじ村。北はアカチラの浜・潮渡川・那覇潟原を経てとうまい村。那覇潟原は泊・前島まえじまなどともに製塩で知られる。間切集成図に那覇塩浜とみえ、廻二一町一分九厘。塩浜東部には馬場と記される。北西海中に夫婦岩があり、西の海岸線は岩場で、上之毛いーぬもーの雪の崎や波之上なみのうえ段丘が海に突き出していた。波之上に続く丘陵はセーコージ山。久茂地村と久米村との間には東郷松山(トーゴーマーチュー)若狭町松尾の松尾山の低丘陵があった。「喜安日記」に那覇、和泉崎(泉崎)と並んで若狭町とみえる。琉球国高究帳では真和志まーじ間切那覇町のうちとして若狭町とあり、畠四七石余。浮免と注記されており、公租免除の地で公租は当村の公費とされた。イベガマ・新村渠から波之上海岸にかけて真和志間切籍内の花城はなぐしく村が存在したが、康熙二八年(一六八九)に廃され(「球陽」尚貞王二一年条)、当村に編入された。

村内には尚金福王(在位一四五〇―五三年)―尚泰久王(在位一四五四―六〇年)代の国相懐機が長虹ちようこう堤を築いた際の拝所であるイベガマ(のちの長寿寺)や、若狭町大通に尚清王(在位一四七七―一五二六年)代の日秀が建立したえびす堂、さらに波之上に波上なみのうえ宮・護国寺天尊てんそん廟など、一四―一六世紀創建とされる琉球王国を代表する寺社などが集まっていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報