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沖縄戦 オキナワセン

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デジタル大辞泉の解説

おきなわ‐せん〔おきなは‐〕【沖縄戦】

第二次大戦末期、沖縄本島およびその周辺で行われた日米の激戦。昭和20年(1945)4月の米軍上陸から約3か月にわたる軍民混在の激しい地上戦のなか、集団自決強制、日本軍による住民虐殺なども起こり、県民約10万人が犠牲となった。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

沖縄戦

太平洋戦争末期の1945年4月に米軍が沖縄本島に上陸。日本軍は本土防衛の盾として住民を動員し、持久戦を展開した。5月末には住民が避難する南部に撤退したため、多数の住民が戦闘に巻き込まれ命を落とした。日本軍は住民にも「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」の戦陣訓を強要し、各地で家族同士が殺し合う「集団自決」が起きた。6月23日に日本軍司令官が自死し、組織的戦闘が終わった。沖縄戦の死者数は約20万人。沖縄県民の4人に1人が犠牲になった。岩手出身者は650~680人が亡くなったとされる。

(2016-06-24 朝日新聞 朝刊 岩手全県・1地方)

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百科事典マイペディアの解説

沖縄戦【おきなわせん】

太平洋戦争末期,沖縄で行われた地上戦。米国軍は1945年3月,約55万人の大艦隊をグアム島から発進し,4月に本島中部西海岸に上陸。日本軍の兵力は現地召集の防衛隊と学徒隊2万人余を加えても約10万人であった。
→関連項目大田昌秀神風特別攻撃隊菊水作戦外間守善

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世界大百科事典 第2版の解説

おきなわせん【沖縄戦】

太平洋戦争の最終段階に,南西諸島,沖縄本島,周辺の島々で行われた日米最後の戦闘。日本国内唯一の地上戦闘であった。1944年10月10日の空襲は,那覇市を中心に島の人口密集地を焼き払い,死者548人を出したが,本土の空襲と同様の意味で空襲といえるのはこの1回だけであり,以後沖縄は地上戦に突入する。アメリカ軍は,アイスバーグ(氷山)作戦と称する沖縄上陸作戦を開始した。太平洋艦隊司令官ニミッツ元帥配下のバックナー中将のひきいる第10軍を主力とするアメリカ軍は45年3月下旬から,約1500隻の艦船と,延べ54万8000人の兵員で,沖縄本島中南部や慶良間諸島艦砲射撃を行った。

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大辞林 第三版の解説

おきなわせん【沖縄戦】

第二次大戦末期、沖縄島およびその周辺離島で行われた日米の激戦。1945年(昭和20)4月1日、米軍は沖縄島に上陸、6月23日に日本軍司令官・参謀長らが自決して、戦闘行為は終結。ひめゆり部隊など島民十数万人が犠牲となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

沖縄戦
おきなわせん

太平洋戦争の最終段階で沖縄諸島を舞台に戦われた日米両軍による地上戦。「日米最後の戦闘」「沖縄決戦」と称されるときもある。[高良倉吉]

戦闘前夜

戦局も押し詰まった1944年(昭和19)3月、本土決戦の防備ラインとして南西諸島を守備すべく第三二軍(牛島満(みつる)司令官)が編成された。沖縄移駐後、軍は航空基地の設定と全島要塞(ようさい)化を目ざして県民男女を徴用し突貫工事を敢行する。しかし、1944年10月10日、レイテ決戦を目前にした米軍の南西諸島全域に対する大空襲(10.10空襲)により守備軍の施設、戦力は甚大な被害を受け、また、那覇市がほぼ全焼するなど県民生活も大きな打撃を被った。しかも第三二軍の主力部隊がやがてフィリピン作戦に抽出されたため、軍首脳は現地徴兵、防衛召集などを通じて県民のなかから即席の兵力を補充するとともに、作戦も戦略持久作戦に変更せざるをえなくなった。沖縄戦開戦時の守備軍は約10万といわれるが、その約3分の1は先の補充兵力にすぎず、兵器、弾薬とも劣弱であった。これに対して米軍は、陸上攻略部隊17万3000、後方支援部隊をあわせると実に44万にも及び、兵器、弾薬の面でも圧倒的に優勢であった。戦場化必至の情勢下で県外(九州、台湾)へ約10万人が疎開したが、海上の危険と船腹の不足で所期の目標を達成できず、大半の県民はやがて戦場となる県内にとどまった。疎開者のなかには、約800名の児童を乗せた船が米潜水艦によって撃沈された対馬(つしま)丸遭難事件(1944年8月22日)のような悲劇に遭遇した人も多い。[高良倉吉]

戦闘経過

硫黄(いおう)島陥落後、米軍はただちに沖縄攻略作戦(アイスバーグ作戦)に着手し、1945年3月23日から沖縄諸島に激しい空襲、艦砲射撃を加えた。26日慶良間(けらま)列島に上陸して同島を確保した米軍は、4月1日、いよいよ沖縄本島中部西海岸に上陸作戦を開始した。日本軍は主力を首里(しゅり)を中心とする浦添(うらそえ)高地一帯に配置していたため、米軍は抵抗らしい抵抗も受けずに上陸を完了して沖縄本島を南北に分断、北部および各離島制圧のための作戦を展開する一方、主力は南進して7日ごろから日本軍主力に総攻撃を開始した。首里の北方浦添高地で展開された両軍の死闘は40日余に及び、両軍とも大きな損害を被った。とくに日本軍は主力部隊をこの戦闘で失ったため、5月22日、拠点であった首里を放棄し残存兵力約4万(一説では3万)をもって南部(島尻(しまじり))に撤退し、ゲリラ戦的抵抗を含む抗戦を続行することとした。狭い南部には戦火に追われた一般県民(推定10万人以上)も避難したため、軍民混在のパニック状態に陥り、そこに米軍の激しい攻撃が加えられたため過酷な状況が展開した。日本軍による壕(ごう)追い出し、住民虐殺、食糧強奪が発生し、住民は、米軍はおろか日本軍の暴虐行為にまで恐れおののく事態となった。南部にかろうじて設定された八重瀬岳(やえせだけ)一帯の日本軍防衛線も6月18日ごろには米軍に突破されたため、牛島司令官は「最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし」と最後の命令を発し、23日未明、摩文仁(まぶに)の軍司令部壕において自決した。ここに日本軍による組織的抵抗は最終的に終了したが、米軍は引き続き掃討戦を展開、6月末までに約9000人の日本兵が犠牲となり、8万人ほどの一般婦女子が収容されたという。「ひめゆり部隊」をはじめとする学徒隊や、現地応召の防衛隊の多くも南端の洞窟(どうくつ)や海岸で悲惨な最期を遂げた。米軍が沖縄攻略作戦の終了を宣言したのは7月2日のことである。[高良倉吉]

被災と特徴

3か月余の戦闘で日本軍将兵(県出身者を除く)6万5908人、米軍将兵1万2281人、県出身軍人・軍属2万8228人の戦死者が出た。また、一般県民9万4000人(推定)が犠牲となった(以上県援護課資料による)。県民のなかには集団自決や日本軍による虐殺の例、軍命により強制移住させられマラリアにかかり死亡した例、あるいは一家全滅した例などさまざまな戦死例があり、実数は今日に至るまで判明していない。戦闘員よりも一般住民の戦死者が多いという事実に沖縄戦の特徴がよく表れている。それは、本土進攻をスムーズに運ぶため物量を投入して一気に沖縄を制圧しようとする米軍と、本土進攻を1日でも長引かせるため出血作戦を前提に総力戦を展開する日本軍とが、県民をも巻き込む形で戦闘を行ったからである。沖縄の各地にはいまなお未収集の戦死者の遺骨が数多く存在するといわれている。また、人命ばかりでなく、21件も存在した国宝文化財をはじめとする多くの文化遺産がことごとく灰燼(かいじん)に帰した。戦争で肉親を失った者、傷ついた者など現在の沖縄県民のすべてがなんらかの形で被害者、遺族だといわれている。研究者の間では、沖縄戦は近代沖縄の「結論」であると同時に、戦後沖縄の「原点」「起点」と規定されている。
 毎年6月23日は「慰霊の日」として沖縄県では公休日であり、県主催の合同追悼式をはじめ各種の集会が開催されている。50回目にあたる1995年(平成7)の「慰霊の日」には、糸満(いとまん)市の平和祈念公園内に建設された「平和の礎(いしじ)」の除幕式が行われた。「平和の礎」は沖縄戦で戦死した全犠牲者の氏名が刻まれた記念碑。激戦地となった南部の摩文仁一帯は沖縄戦跡国定公園に指定され、各種の慰霊塔が建立されており、また、沖縄戦当時そのままのようすを伝える洞窟などがいまなお各所に存在している。[高良倉吉]
『防衛庁戦史室編『沖縄方面陸軍作戦』『沖縄方面海軍作戦』(ともに1968・朝雲新聞社) ▽米国陸軍省編、外間征四郎訳『日米最後の戦闘』(1968・サイマル出版会) ▽琉球政府編・刊『沖縄県史 9』(1971) ▽『沖縄県史 10』(1974・沖縄県教育委員会) ▽池宮城秀意編『日本の空襲 9 沖縄』(1981・三省堂) ▽大田昌秀編著『総史沖縄戦』(1982・岩波書店) ▽月刊沖縄社編・刊『沖縄戦記録写真集 日本最後の戦い』(1993) ▽安仁屋政昭編著『沖縄戦学習のために』(1997・平和文化) ▽沖縄タイムス社編・刊『写真記録 沖縄戦後史』改訂増補版(1998) ▽宮里政玄・我部政男著『写真・記録沖縄戦全資料 資料目録付き』CD-ROM版(1999・日本図書センター) ▽藤原彰編著『沖縄戦――国土が戦場になったとき』新装版(2001・青木書店) ▽石原昌家・大城将保・保坂広志・松永勝利著『争点・沖縄戦の記憶』(2002・社会評論社) ▽大田昌秀著『沖縄のこころ――沖縄戦と私』(岩波新書)』

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世界大百科事典内の沖縄戦の言及

【浦添[市]】より

…浦添は〈うらおそい〉(浦々を襲う),つまり諸国を支配する意味で,12世紀半ばから15世紀初めにかけて,首里に王府が移るまで王城の地として栄え,牧港川河口の牧港が琉球最大の貿易港であった。第2次世界大戦には,浦添城跡を中心に牧港と前田を結ぶ断層崖一帯は,沖縄戦最大の激戦地となり,その攻防は沖縄戦の天王山といわれた。現在,市域の15%はアメリカ軍基地である。…

【太平洋戦争】より

…その後連合国軍は,45年6月までにフィリピン全島を奪回,45年3月17日には硫黄島守備隊を全滅させ(硫黄島作戦),4月1日には沖縄本島へ上陸した。約3ヵ月にわたる沖縄戦では,多数の県民や学生が義勇隊,防衛隊,鉄血勤皇隊,ひめゆり部隊などに組織され,戦闘に参加して死傷し,多くの県民が戦闘の巻添えにされて死傷した。また日米両軍による県民虐殺事件が多発し,約800名(1000名以上とも言われている)が日本軍によって殺害された。…

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