太平洋戦争末期の1945年3月26日、米軍が沖縄・慶良間諸島に上陸して始まった地上戦。4月1日には沖縄本島に上陸し、空襲や艦砲射撃など「鉄の暴風」と呼ばれる猛攻撃を加えた。旧日本軍の組織的戦闘は6月23日、南西諸島を防衛する第32軍の
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太平洋戦争の最終段階で沖縄諸島を舞台に戦われた日米両軍による地上戦。「日米最後の戦闘」「沖縄決戦」と称されるときもある。
[高良倉吉]
戦局も押し詰まった1944年(昭和19)3月、本土決戦の防備ラインとして南西諸島を守備すべく第三二軍(牛島満(みつる)司令官)が編成された。沖縄移駐後、軍は航空基地の設定と全島要塞(ようさい)化を目ざして県民男女を徴用し突貫工事を敢行する。しかし、1944年10月10日、レイテ決戦を目前にした米軍の南西諸島全域に対する大空襲(10.10空襲)により守備軍の施設、戦力は甚大な被害を受け、また、那覇市がほぼ全焼するなど県民生活も大きな打撃を被った。しかも第三二軍の主力部隊がやがてフィリピン作戦に抽出されたため、軍首脳は現地徴兵、防衛召集などを通じて県民のなかから即席の兵力を補充するとともに、作戦も戦略持久作戦に変更せざるをえなくなった。沖縄戦開戦時の守備軍は約10万といわれるが、その約3分の1は先の補充兵力にすぎず、兵器、弾薬とも劣弱であった。これに対して米軍は、陸上攻略部隊17万3000、後方支援部隊をあわせると実に44万にも及び、兵器、弾薬の面でも圧倒的に優勢であった。戦場化必至の情勢下で県外(九州、台湾)へ約10万人が疎開したが、海上の危険と船腹の不足で所期の目標を達成できず、大半の県民はやがて戦場となる県内にとどまった。疎開者のなかには、約800名の児童を乗せた船が米潜水艦によって撃沈された対馬(つしま)丸遭難事件(1944年8月22日)のような悲劇に遭遇した人も多い。
[高良倉吉]
硫黄(いおう)島陥落後、米軍はただちに沖縄攻略作戦(アイスバーグ作戦)に着手し、1945年3月23日から沖縄諸島に激しい空襲、艦砲射撃を加えた。26日慶良間(けらま)列島に上陸して同島を確保した米軍は、4月1日、いよいよ沖縄本島中部西海岸に上陸作戦を開始した。日本軍は主力を首里(しゅり)を中心とする浦添(うらそえ)高地一帯に配置していたため、米軍は抵抗らしい抵抗も受けずに上陸を完了して沖縄本島を南北に分断、北部および各離島制圧のための作戦を展開する一方、主力は南進して7日ごろから日本軍主力に総攻撃を開始した。首里の北方浦添高地で展開された両軍の死闘は40日余に及び、両軍とも大きな損害を被った。とくに日本軍は主力部隊をこの戦闘で失ったため、5月22日、拠点であった首里を放棄し残存兵力約4万(一説では3万)をもって南部(島尻(しまじり))に撤退し、ゲリラ戦的抵抗を含む抗戦を続行することとした。狭い南部には戦火に追われた一般県民(推定10万人以上)も避難したため、軍民混在のパニック状態に陥り、そこに米軍の激しい攻撃が加えられたため過酷な状況が展開した。日本軍による壕(ごう)追い出し、住民虐殺、食糧強奪が発生し、住民は、米軍はおろか日本軍の暴虐行為にまで恐れおののく事態となった。南部にかろうじて設定された八重瀬岳(やえせだけ)一帯の日本軍防衛線も6月18日ごろには米軍に突破されたため、牛島司令官は「最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし」と最後の命令を発し、23日未明、摩文仁(まぶに)の軍司令部壕において自決した。ここに日本軍による組織的抵抗は最終的に終了したが、米軍は引き続き掃討戦を展開、6月末までに約9000人の日本兵が犠牲となり、8万人ほどの一般婦女子が収容されたという。「ひめゆり部隊」をはじめとする学徒隊や、現地応召の防衛隊の多くも南端の洞窟(どうくつ)や海岸で悲惨な最期を遂げた。米軍が沖縄攻略作戦の終了を宣言したのは7月2日のことである。
[高良倉吉]
3か月余の戦闘で日本軍将兵(県出身者を除く)6万5908人、米軍将兵1万2281人、県出身軍人・軍属2万8228人の戦死者が出た。また、一般県民9万4000人(推定)が犠牲となった(以上県援護課資料による)。県民のなかには集団自決や日本軍による虐殺の例、軍命により強制移住させられマラリアにかかり死亡した例、あるいは一家全滅した例などさまざまな戦死例があり、実数は今日に至るまで判明していない。戦闘員よりも一般住民の戦死者が多いという事実に沖縄戦の特徴がよく表れている。それは、本土進攻をスムーズに運ぶため物量を投入して一気に沖縄を制圧しようとする米軍と、本土進攻を1日でも長引かせるため出血作戦を前提に総力戦を展開する日本軍とが、県民をも巻き込む形で戦闘を行ったからである。沖縄の各地にはいまなお未収集の戦死者の遺骨が数多く存在するといわれている。また、人命ばかりでなく、21件も存在した国宝文化財をはじめとする多くの文化遺産がことごとく灰燼(かいじん)に帰した。戦争で肉親を失った者、傷ついた者など現在の沖縄県民のすべてがなんらかの形で被害者、遺族だといわれている。研究者の間では、沖縄戦は近代沖縄の「結論」であると同時に、戦後沖縄の「原点」「起点」と規定されている。
毎年6月23日は「慰霊の日」として沖縄県では公休日であり、県主催の合同追悼式をはじめ各種の集会が開催されている。50回目にあたる1995年(平成7)の「慰霊の日」には、糸満(いとまん)市の平和祈念公園内に建設された「平和の礎(いしじ)」の除幕式が行われた。「平和の礎」は沖縄戦で戦死した全犠牲者の氏名が刻まれた記念碑。激戦地となった南部の摩文仁一帯は沖縄戦跡国定公園に指定され、各種の慰霊塔が建立されており、また、沖縄戦当時そのままのようすを伝える洞窟などがいまなお各所に存在している。
[高良倉吉]
『防衛庁戦史室編『沖縄方面陸軍作戦』『沖縄方面海軍作戦』(ともに1968・朝雲新聞社)』▽『米国陸軍省編、外間征四郎訳『日米最後の戦闘』(1968・サイマル出版会)』▽『琉球政府編・刊『沖縄県史 9』(1971)』▽『『沖縄県史 10』(1974・沖縄県教育委員会)』▽『池宮城秀意編『日本の空襲 9 沖縄』(1981・三省堂)』▽『大田昌秀編著『総史沖縄戦』(1982・岩波書店)』▽『月刊沖縄社編・刊『沖縄戦記録写真集 日本最後の戦い』(1993)』▽『安仁屋政昭編著『沖縄戦学習のために』(1997・平和文化)』▽『沖縄タイムス社編・刊『写真記録 沖縄戦後史』改訂増補版(1998)』▽『宮里政玄・我部政男著『写真・記録沖縄戦全資料 資料目録付き』CD-ROM版(1999・日本図書センター)』▽『藤原彰編著『沖縄戦――国土が戦場になったとき』新装版(2001・青木書店)』▽『石原昌家・大城将保・保坂広志・松永勝利著『争点・沖縄戦の記憶』(2002・社会評論社)』▽『大田昌秀著『沖縄のこころ――沖縄戦と私』(岩波新書)』
太平洋戦争の最終段階に,南西諸島,沖縄本島,周辺の島々で行われた日米最後の戦闘。日本国内唯一の地上戦闘であった。1944年10月10日の空襲は,那覇市を中心に島の人口密集地を焼き払い,死者548人を出したが,本土の空襲と同様の意味で空襲といえるのはこの1回だけであり,以後沖縄は地上戦に突入する。アメリカ軍は,アイスバーグ(氷山)作戦と称する沖縄上陸作戦を開始した。太平洋艦隊司令官ニミッツ元帥配下のバックナー中将のひきいる第10軍を主力とするアメリカ軍は45年3月下旬から,約1500隻の艦船と,延べ54万8000人の兵員で,沖縄本島中南部や慶良間諸島に艦砲射撃を行った。3月26日に慶良間に,4月1日には沖縄本島中部嘉手納海岸に上陸した。一方,沖縄守備第32軍(司令官牛島満中将)は,第24師団(山部隊),第62師団(石部隊),独立混成第44旅団(球部隊主力)の陸軍8万6400人,海軍約1万人,それに現地徴集の防衛隊員,学徒隊員約2万人の計約12万人で構成されていた。第32軍は敵戦力のおよそ4分の1で,軍事的にみて圧倒的に劣勢であった。第32軍は,大本営の指導の下に,本土決戦のひき延ばしをはかる〈出血持久〉作戦を実施し,本島中南部にかけて陣地による戦闘でアメリカ軍の戦力を消耗させることを目的とした。本島北部では,山岳地帯を根拠にする宇土部隊によって,住民をも戦力化する組織的ゲリラ作戦を主体とする秘密遊撃戦も構想されていた。4月1日,第32軍の水際作戦の放棄によって無血上陸をはたしたアメリカ軍は,沖縄本島を南北に分断し,4月20日には北部を制圧した。一方,南進したアメリカ軍は,嘉数高地や浦添の前田で日本軍と一進一退の攻防を展開し,最大の死傷者を出した。しかし,アメリカ軍の攻勢はゆるがず,沖縄守備軍司令部は5月22日から27日にかけて首里から南部摩文仁に撤退した。この間に約10万余の住民が戦場を彷徨したあげく多数の死亡者を出した。こうして6月23日,牛島満司令官,長勇参謀長が自決し,日本軍の組織的戦闘は終了した。嘉手納のアメリカ軍第10司令部で日米両軍の代表によって戦争終結の降伏調印文書に署名されたのが9月7日である。
沖縄戦は国体護持の捨石作戦でしかなかった。小磯国昭・鈴木貫太郎両内閣は敗戦を必至とみて,すでに和平工作に踏み切っていたし,その有利な条件づくりの一つの賭が沖縄戦であった。沖縄戦の特徴は,国内唯一の激しい地上戦が展開され,軍民混在という戦場状況で,正規軍人を上まわる非戦闘員である住民の犠牲者を出したということである。政府は住民の県外への疎開を計画し,九州,台湾に約8万人を疎開させたが,計画実施の過程で,学童疎開船対馬丸が米潜水艦に撃沈され約1500人が死亡する事件(対馬丸遭難事件,1944年8月)も発生している。第32軍は,住民の戦争協力を調達するため意識的に,相互監視のために住民どうしがスパイ視する状況を利用した。激戦地区で発生した集団自決は,敵に投降し捕虜になることでスパイ視されることを恐れたからであり,アメリカ軍の保護を受けた住民がスパイと誤認され,日本兵に虐殺された事件もあった。
執筆者:我部 政男
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…浦添は〈うらおそい〉(浦々を襲う),つまり諸国を支配する意味で,12世紀半ばから15世紀初めにかけて,首里に王府が移るまで王城の地として栄え,牧港川河口の牧港が琉球最大の貿易港であった。第2次世界大戦には,浦添城跡を中心に牧港と前田を結ぶ断層崖一帯は,沖縄戦最大の激戦地となり,その攻防は沖縄戦の天王山といわれた。現在,市域の15%はアメリカ軍基地である。…
…その後連合国軍は,45年6月までにフィリピン全島を奪回,45年3月17日には硫黄島守備隊を全滅させ(硫黄島作戦),4月1日には沖縄本島へ上陸した。約3ヵ月にわたる沖縄戦では,多数の県民や学生が義勇隊,防衛隊,鉄血勤皇隊,ひめゆり部隊などに組織され,戦闘に参加して死傷し,多くの県民が戦闘の巻添えにされて死傷した。また日米両軍による県民虐殺事件が多発し,約800名(1000名以上とも言われている)が日本軍によって殺害された。…
※「沖縄戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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