知恵蔵 「蓮舫」の解説
蓮舫
貿易商をしていた台湾人の父親と日本人の母親との間に生まれた。1985年、国籍法が改正され、それまで父親が日本人の場合しか取得できなかった日本国籍を、父母のいずれかが日本人であれば得られるようになったため、17歳で日本国籍を取得した。
幼稚園から大学まで青山学院に通い、大学在学中に音響機器メーカー、クラリオンのキャンペーンガールに選ばれて芸能界デビューした。1990年に青山学院大学法学部を卒業、タレントとしてテレビのバラエティー番組などに出演していたが、司会やレポーターを経て報道キャスターとなった。90年代前半にフリージャーナリストの夫と結婚。95年、中国の北京大学漢語中心に留学し、中国語などについて学んだ。
97年に帰国し、双子の男女を出産した。その後は育児をしながらテレビ、ラジオ番組への出演や講演、執筆活動を行っていたが、2003年、民主党幹部だった鳩山由紀夫元首相に政界入りを勧められた。その後、手塚仁雄衆議院議員(当時)や仙谷由人元官房長官らにも説得され、04年の参議院議員選挙で東京都選挙区から立候補した。少子化や子育て対策を訴えた「ママフェスト」を掲げ、約92万票を獲得して初当選を果たした。
民主党政権時代は、10年の菅直人連立内閣で内閣府特命担当大臣(行政刷新担当)として初入閣し、公務員制度改革担当大臣、首相補佐官などを歴任した。11年の野田佳彦連立内閣でも内閣府特命担当大臣(行政刷新、少子化対策担当など)を務めた。
また、内閣府の行政刷新会議が国などの事業について無駄がないかを点検する事業仕分けでは、鋭い発言で事業の是非に迫った。特に09年、日本が世界一を目指す次世代スーパーコンピューターの開発予算について調査した際、事業担当者に述べた「2位じゃだめなんでしょうか」という発言は話題となり、ノーベル賞受賞者らから反発を招いた。15年に民主党代表代行に就任。16年9月の民進党代表選では、「私たちには提案がある、提言がある、対案がある。国民に選んでいただける政党にする」と主張、前原誠司元外務大臣、玉木雄一郎衆院議員と争い、国会議員や地方議員、党員・サポーターらから多くの支持を集めて代表に選出された。代表選期間中には、日本国籍の他に台湾籍が残っていたという「二重国籍」が判明したが、代表就任後、台湾籍の離脱手続きを行った。
党の執行部人事では、幹事長に、自身が政界入りしてからの後見人である野田元首相を起用したが、12年衆議院議員選挙で民主党が大敗した時の首相でもあることから、党内で反発する声もある。また、代表選期間中には、岡田前代表が始めた共産党など野党との選挙協力の軌道修正を示唆していたが、代表就任後の野党党首会談では、引き続き協力していくことを確認した。16年10月に行われた衆院東京10区、福岡6区の補欠選挙では、共産党が候補を取り下げ、野党は民進党の候補に一本化して臨んだが、自民党系の候補が当選した。
著書に『一番じゃなきゃダメですか?』(PHP研究所)などがある。
(南 文枝 ライター/2016年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報