朝日日本歴史人物事典 「藤懸永勝」の解説
藤懸永勝
生年:弘治3(1557)
安土桃山・江戸前期の武将。姓は藤掛とも書く。織田氏一族織田永継の子として生まれるが,2歳で父に死別,外祖父藤懸善右衛門に養育され,藤懸姓を名乗る。通称は三蔵,名は,はじめ吉勝と名乗り,三河守,美作守を称した。11歳で織田信長に仕え,信長の妹お市の方が浅井長政に嫁いだとき随伴。信長死後は豊臣秀吉に仕え,秀吉の養子於次秀勝(信長の4男)の補佐役となった。丹波国のうちで6000石を領し,のち秀勝死後再び秀吉に属した。文禄の役では渡海,関ケ原の戦のときには西軍について丹後田辺城(舞鶴市)攻めに加わったが,城主の細川藤孝(幽斎)と親しかったため,本気で攻めなかったといわれている。
(小和田哲男)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報