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藤懸永勝 ふじかけ ながかつ

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤懸永勝 ふじかけ-ながかつ

1557-1617 織豊-江戸時代前期の武将。
弘治(こうじ)3年生まれ。父織田永継の死後,外祖父藤懸善右衛門にやしなわれた。織田信長につかえ,天正(てんしょう)元年浅井長政滅亡の際,小谷の方とその娘3人を信長のもとにおくりとどけた。のち豊臣秀吉につかえ,丹波氷上郡(兵庫県)に1万3000石を領したが,関ケ原の戦いで西軍に属し,6000石に減封(げんぽう)となる。元和(げんな)3年6月5日死去。61歳。初名は吉勝。通称は三蔵。姓は藤掛とも。

出典|講談社
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朝日日本歴史人物事典の解説

藤懸永勝

没年:元和3.6.5(1617.7.7)
生年:弘治3(1557)
安土桃山・江戸前期の武将。姓は藤掛とも書く。織田氏一族織田永継の子として生まれるが,2歳で父に死別,外祖父藤懸善右衛門に養育され,藤懸姓を名乗る。通称は三蔵,名は,はじめ吉勝と名乗り,三河守,美作守を称した。11歳で織田信長に仕え,信長の妹お市の方が浅井長政に嫁いだとき随伴。信長死後は豊臣秀吉に仕え,秀吉の養子於次秀勝(信長の4男)の補佐役となった。丹波国のうちで6000石を領し,のち秀勝死後再び秀吉に属した。文禄の役では渡海,関ケ原の戦のときには西軍について丹後田辺城(舞鶴市)攻めに加わったが,城主の細川藤孝(幽斎)と親しかったため,本気で攻めなかったといわれている。

(小和田哲男)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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