見性院(読み)けんしょういん

朝日日本歴史人物事典 「見性院」の解説

見性院

没年元和3.12.4(1617.12.31)
生年弘治3(1557)
安土桃山時代の武家の女性。山内一豊の妻。千代。浅井家家臣若宮喜助友興の娘。父の討死後,美濃(岐阜県)不破重純氏の養女となる。一豊の母に仕えて嫁に見込まれたともいわれる。一豊が,目にとめた名馬を求めたいと望んだ折,夫の大事にと実家から持参した黄金10枚を用立てた。のち馬揃のとき,これが織田信長に認められ,一豊の出世のきっかけになったとの逸話がある。天正13(1585)年に長浜城主夫人となり,のち大坂に居住した。慶長5(1600)年,一豊は徳川家康に従って会津出陣,千代はそのもとへ石田三成の挙兵を知らせ,自身は人質となれば自決の覚悟なので心置きなく徳川氏に忠誠を尽くすよう助言したという。関ケ原の戦の功績として一豊は土佐一国を与えられたが,翌10年死去。千代は落飾して妙心寺から見性院の法号を受け,翌年京都に戻った。墓所は京都妙心寺大通院。<参考文献>『人物日本の女性史』4巻

(西村圭子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「見性院」の解説

見性院(3) けんしょういん

1703-1770 江戸時代中期の女官
元禄(げんろく)16年生まれ。正徳(しょうとく)5年(1715)中御門(なかみかど)天皇につかえ,伊予(いよ)と称する。6年中臈(ちゅうろう)となり,町局(まちのつぼね)とよばれる。聖珊(しょうさん)女王,慈仁入道親王を生む。元文2年(1737)天皇の死去にともない剃髪(ていはつ)し,見性院と号した。明和7年9月10日死去。68歳。

見性院(1) けんしょういん

1557-1617 織豊-江戸時代前期の女性。
弘治(こうじ)3年生まれ。山内一豊(かずとよ)の妻。夫の大事のためにと鏡箱から黄金10枚をだして名馬をかいもとめた話で知られる。関ケ原の戦いの直前,徳川家康にしたがって関東に出陣中の夫に的確な情報をおくる。夫の死後出家し,見性院と号した。元和(げんな)3年12月4日死去。61歳。名は千代,まつ。

見性院(2) けんしょういん

1543-1622 戦国-江戸時代前期,穴山梅雪の正室。
天文(てんぶん)12年生まれ。武田信玄の娘。永禄(えいろく)元年ごろ信玄の姉の子梅雪と結婚。夫の死後は徳川家康に保護され,将軍秀忠の子幸松(のち陸奥(むつ)会津(あいづ)藩(福島県)藩主保科正之(ほしな-まさゆき))を養育した。元和(げんな)8年5月9日死去。80歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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