後奈良天皇(読み)ごならてんのう

精選版 日本国語大辞典 「後奈良天皇」の意味・読み・例文・類語

ごなら‐てんのう ‥テンワウ【後奈良天皇】

第一〇五代天皇。後柏原天皇の第二皇子。名は知仁(ともひと)大永六年(一五二六)践祚(せんそ)。戦乱の世にあって足利幕府朝廷も衰え、即位式は一〇年後、大内・朝倉氏らの戦国大名の献金によって行なわれた。在位三二年。日記「天聴集」や御製集がある。明応五~弘治三年(一四九六‐一五五七

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デジタル大辞泉 「後奈良天皇」の意味・読み・例文・類語

ごなら‐てんのう〔‐テンワウ〕【後奈良天皇】

[1497~1557]第105代天皇。在位、1526~1557。後柏原天皇の第2皇子。名は知仁ともひと。皇室の最も衰微した時代で、践祚せんその10年後に後北条・今川・大内氏ら諸大名の献金で即位礼を挙げた。

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朝日日本歴史人物事典 「後奈良天皇」の解説

後奈良天皇

没年:弘治3.9.5(1557.9.27)
生年:明応5.12.23(1497.1.26)
戦国時代の天皇(在位1526~57)。後柏原天皇の第2皇子。母は勧修寺教秀の娘(豊楽門院)。諱は知仁。永正9(1512)年4月親王宣下,次いで元服。大永6(1526)年4月父帝後柏原の死去を受けて践祚。しかしその直後細川家の内訌で丹波の柳本賢治らが反乱を起こし,これに細川晴元らが呼応して畿内は鼎の沸くような内戦に突入,即位礼は自然沙汰止みとなった。幕府や執政細川高国は内乱への対応に忙殺され,即位礼費の財源は天皇家が自前で講じざるを得なくなった。そこで天皇は勅使を派遣して小田原の北条氏綱や駿河の今川氏親,越前の朝倉氏らに献金を要請したがなお大半の経費が不足した。折から周防の大内義隆は少弐氏,大友氏らに対抗するため天皇権威の引き出しを図り,周防介,筑前守の勅許と引き換えに巨額の献金をなし,さらに大礼費に銭2000貫の拠出を行った。これにより践祚後10年の天文5(1536)年2月,即位が挙行され,義隆はその功として大宰大弐に任官,少弐氏圧服の手掛かりを得た。同9年疫病退散を祈って『般若心経』を書写し,24カ国の一宮社に宸筆の心経が奉納されたことは有名。将軍が京都を逃脱し地方へ流竄するなかで天皇は戦国大名に官位を叙任し,長尾・上杉氏らには私敵追討綸旨を発給するなど,独自の天皇権威の振興を図り,これは安土桃山時代の「王朝回復」の先駆けをなした。したがって単にこの時期を朝廷権力の衰退一辺倒とみるのは誤りである。自筆日記『天聴集』は戦国期の基本史料。<参考文献>今谷明『戦国大名と天皇』

(今谷明)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「後奈良天皇」の意味・わかりやすい解説

後奈良天皇
ごならてんのう
(1496―1557)

第105代天皇(在位1526~57)。名は知仁(ともひと)。後柏原(ごかしわばら)天皇の皇子。母は贈左大臣勧修寺教秀(かじゅうじのりひで)の女(むすめ)豊楽門院(ぶらくもんいん)藤子。父天皇崩御ののち、1526年(大永6)位につき、弘治(こうじ)3年9月5日崩御。京都の深草北陵に葬る。後奈良天皇には『天聴集』と称する宸筆(しんぴつ)日記をはじめ、『御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)』を自ら記したものも伝わっており、『後奈良院御集』なる歌集も伝存する。また同天皇の事蹟(じせき)で著聞するものに宸筆般若心経(はんにゃしんぎょう)があり、その一は大覚寺心経殿に存するもの、その二は醍醐寺(だいごじ)に存するもの、その三は国々の一宮(いちのみや)に納められたもので、いずれも天文(てんぶん)年間(1532~55)に属し、国民の疫病(えきびょう)、飢饉(ききん)、洪水、兵乱などに苦しむを救わんための志に発するものである。

[村田正志]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「後奈良天皇」の解説

後奈良天皇 ごならてんのう

1497*-1557 戦国時代,第105代天皇。在位1526-57。
明応5年12月23日生まれ。後柏原(ごかしわばら)天皇の第2皇子。母は藤原藤子(豊楽(ぶらく)門院)。父の死により皇位をつぐ。戦乱がつづいて国はみだれ,皇室財政も逼迫(ひっぱく)していたので,即位式は践祚(せんそ)の10年後におこなわれた。天文(てんぶん)9年悪疫流行の終息をいのって,般若心経を書写して諸国の一宮(いちのみや)に奉納した。在位中にポルトガルによって鉄砲がつたえられ,宣教師ザビエルが渡来した。弘治(こうじ)3年9月5日死去。62歳。墓所は深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)(京都市伏見区)。諱(いみな)は知仁(ともひと)。日記に「天聴集」。
【格言など】しづたまきよろづを棄てぬ古(いにしへ)の道しある世にくりかへしてむ(「後奈良院御製集」)

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改訂新版 世界大百科事典 「後奈良天皇」の意味・わかりやすい解説

後奈良天皇 (ごならてんのう)
生没年:1496-1557(明応5-弘治3)

第105代に数えられる天皇。在位1526-57年。後柏原天皇の第2皇子。名は知仁。公家のもっとも衰微したときに践祚し,即位式は大内,今川,後北条氏らの大名からの献金を得て,10年後にようやく挙行した。戦乱や災害で飢饉,疫病に苦しむ庶民のため,諸国一宮に宸筆の〈般若心経〉を奉納した。日記を《天聴集》という。陵所は京都市伏見区深草坊町にある(深草北陵)。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「後奈良天皇」の意味・わかりやすい解説

後奈良天皇
ごならてんのう

[生]明応5(1496).12.23. 京都
[没]弘治3(1557).9.5. 京都
第 105代の天皇 (在位 1526~57) 。名は知仁。後柏原天皇の第2皇子。母は豊楽門院藤原藤子 (勧修寺教秀の娘) 。皇室の最も式微した時期で,室町幕府の献金で践祚し,それから 10年後の天文5 (36) 年,北条,今川,朝倉,大内氏らの献金によって即位式が行えたほどであった。全国的な争乱に加えて,同9年の飢饉と疫病に苦しむ庶民を見て,宸筆の『般若心経』を諸国一宮に奉納し災厄を祈禳したことは有名である。学を好み,三条西実隆らに和漢の書の講義を聞き,古典の書写,保存に努めた。『天聴集』が現存している。陵墓は京都市伏見区深草坊町の深草北陵。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「後奈良天皇」の解説

後奈良天皇
ごならてんのう

1496.12.23~1557.9.5

在位1526.4.29~57.9.5

後柏原天皇の第2皇子。名は知仁(ともひと)。母は豊楽門院(ぶらくもんいん)藤子。1512年(永正9)親王宣下。26年(大永6)践祚(せんそ)したが,即位礼は費用が調わず,10年後の36年(天文5)大内義隆らの献金により行われた。しかし大嘗会は行うことができず,45年伊勢神宮に大嘗会未遂を詫びている。

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百科事典マイペディア 「後奈良天皇」の意味・わかりやすい解説

後奈良天皇【ごならてんのう】

戦国時代の天皇。在位は1526年―1557年。後柏原天皇第2皇子。当時は皇室が最も衰微した時代で即位式もできず,10年後,北条・大内ら戦国大名の献金によってようやく挙行できた。疫病流行や飢饉(ききん)の際,宮中で修法を行い,般若心経を書写して祈願したことは窮乏生活とともに有名。日記《天聴集(てんちょうしゅう)》がある。

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旺文社日本史事典 三訂版 「後奈良天皇」の解説

後奈良天皇
ごならてんのう

1496〜1557
戦国時代の天皇(在位1526〜57)
後柏原天皇の第2皇子。皇室の経済力が最も衰微した時期のため,即位式は10年後に大内氏・後北条氏らの献金でようやく行われた。飢饉・疫病の流行に際して,『般若心経』を書写して災除の祈願をされたことは有名。

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367日誕生日大事典 「後奈良天皇」の解説

後奈良天皇 (ごならてんのう)

生年月日:1496年12月23日
戦国時代の第105代の天皇
1557年没

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